草花スタンプ
青瀬凛
第1話
僕の家の近所の雑貨屋は不思議な物を扱っていることがあった。僕が手に入れたのは、そのうちの一つだ。
「これは魔法のスタンプだよ」
あの日、初老の店主はそう言って、掌ぐらいの大きさのスタンプを見せてきた。
よく見ると、スタンプだというのにそれには何も模様が付いていなかった。そのことを店主に言うと、彼は笑ってこう言った。
「そうさ。これには模様が無いんだ。模様は自分で付けるんだよ。例えば、こんな風に」
そう言うと、彼はカウンター上の花瓶に差してあったカスミソウにそのスタンプヘッドを押し付けた。そしてそのまま白い紙にヘッドを乗せた。すると不思議なことに、カスミソウの色も形もそっくりそのまま紙に写し取られたではないか。しかも、花の香りまでする。
「分かったかい? これは植物なら何でも写し取れるスタンプなんだ。姿形、色、匂い、何でもそのままにね」
僕はあっという間にそのスタンプの魅力に取り付かれた。どうしてもそれが欲しくなった僕は、店主に値段を聞いた。三千円とのことだった。
まだ小学生だった僕にとってはそれは大層な大金であったが、なけなしのお年玉を叩いて、それを購入した。
それからは毎日のようにいろいろな草花をスタンプしていった。庭のタンポポ、道端のツツジ、花屋で買ってきたバラ……。僕は飽きもせずに、花をノートに写していった。
ある日、何となくまたあの雑貨屋に行った。すると店主が具合の悪そうな顔をして、店番をしていた。
どうしたのかと僕が尋ねると、店主はこう言った。
「ちょっと病気をしてね。長いこと店から離れていないんだよ。この店もそのうち畳まないといけないかもしれないねぇ……」
そんな、と僕は思った。そして何とかして店主に元気になってもらいたいと思い、出来ることはないかと聞いた。
「ありがとうね。病気を治すのは難しいかもしれないけれど、一度、青いバラを見てみたいと思っていたんだ。それを見れば元気が出るかもしれないなぁ」
僕はすぐさまスタンプのことを思い浮かべた。あのスタンプを使えば、店主にその花を見せてあげられるかもしれない。
次の日から、僕は青いバラを探し始めた。だけど、青いバラは幻の花らしく、そんじょそこらでは手に入らないようだった。
行ける範囲の花屋は全部当たったし、花に詳しい知り合いの人にも頼ってみた。けれど、どうしても青いバラは見つけられなかった。あったとしても、人工的に色を付けた物で、本物の花ではなかった。
すっかり困ってしまったある日、父がバラ園に行ってみないかと言った。僕が一生懸命にバラを探しているのを見かねて、様々な種類のバラが揃う園を見つけてくれたのだ。
僕は行きたいと、すぐに返事をした。そして次の休みの日に連れて行ってもらえることになった。
そのバラ園はかなり遠くにあって、電車で五時間もかかってしまった。小学生の僕にとっては大冒険である。そして、父にチケットを買ってもらい、早速バラを探し始めた。
赤、白、ピンク、黄色……。よくある色のバラばかりだ。歩いても歩いても見つからない。泣きそうになったけれど、僕はスタッフの人に尋ねてみることにした。
公園の手入れをしていた中年の女性スタッフさんに話しかける。
青いバラを探しているのだと言うと、今年はその花の生育が良くなくて、一輪しか咲かなかったのだと教えてくれた。もう枯れかけているだろうけど、一応は咲いているとのことだったので、其処まで案内してもらった。
そして、漸く……見つけた。花びらの先が少し茶色になり、萎れかけた青いバラ。
僕は急いでスタンプを押し付けた。色も形も匂いも、あの店主の理想には届かないかもしれないが、それでも見つけられた喜びで、僕は胸が一杯だった。
ノートにそっと判を押し、確かめる。其処には咲いているのと一分も違わない花が写し取られていた。
それから次の日、僕は喜び勇んであの雑貨屋へ行った。
するとどうしたことだろう。雑貨屋が何処にもないのである。道を間違えた訳ではない。店の在った所が空き地になっていたのであった。
僕は呆然として其処に立ち尽くした。
間に合わなかったのだ。そのことに気が付き、頭が真っ白になった。そして、顔が熱くなり、目が痛くなった。ぼろぼろと涙が溢れてきた。
見せてあげたかったのに。頑張ったのに。
大声を上げて泣き叫ぼうとしたその時。
「おやおや、どうしたんだい」
聞きなれた声がした。ハッとして振り返ると、あの店主が杖を突いて歩いて来た。
「そうだったのかい。来てくれてありがとうね。店は畳むことにしたんだよ。もう続けられなくてね」
それを聞いて僕は抱えていたノートの存在を思い出し、青いバラのページを開いて彼に見せた。
「おお、これは……」
彼は目を見開き、そして破顔した。
「君はこれを探してくれていたんだね。綺麗だ。良い香りだ。ありがとう。一生の夢が叶ったよ。君にスタンプを買ってもらえて本当に良かった」
そして彼は僕に深くお辞儀をして言った。
「これで旅立てるよ。本当にありがとう」
えっと思う間に彼の姿は光となって消えてしまった。
僕はまた驚いて、立ち尽くした。
彼は何処へ行ってしまったのだろう。何者だったのだろう。
考えても分からなかったが、僕はあの人の願いを叶えられた嬉しさで、小躍りするように家に帰った。
そして、その日より一週間も前に彼が亡くなっていたことを知ったのは、僕がもう少し大きくなってからのことであった。
草花スタンプ 青瀬凛 @Rin_Aose
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます