指先に祈りを込めて―桜の花びら舞う中で―
山吹いずみ
第一部 指先に祈りを込めて
第1話
手術室の中――
モニターの音が規則的に響いている。
冷房は効いているのに、眩しい照明が暑いくらい。
手に汗が滲む。
赤い血がどんどんと溢れてくる。
指導医の焦った声がする。
吸引しても吸引しても追いつかない。
そして、モニターのアラームが無機質に響きわたる。
「……!」
パジャマ代わりのシャツが、嫌な汗でびしょびしょに濡れ、背中に纏わりついていた。
悠は小さく溜息をつき、枕元の時計を見る。
時刻は、まだ朝の5時を過ぎたところだった。
だが、もう一度眠りにつく気分にはなれず、重たい身体を起こす。
昨日ベッドに入ったのは深夜1時すぎ。
脳外科医として忙しい日々を過ごす彼にとって、短い睡眠時間は日常だった。
春先のこの時期。
カーテンを開けてもまだ外は薄暗かった。
少し時間があるため、いつもはインスタントコーヒーで済ませるところ、ドリップコーヒーを煎れることにした。
お湯を注ぐと、ゆっくりとコーヒーの香りがリビングに広がっていく。
都内の一等地。
4階建てのマンションの2階に位置する2LDKの部屋。
物が少なく、小綺麗に整えられていた。
悠は、この部屋に医大を卒業してからの11年間、1人で暮らしている。
いや、一時期は婚約者と同棲していたときもあった。
だが、それは過去のこと――
悠は、汗に濡れたシャツを脱ぎ、洗濯かごに放り込むと、何気なくテレビをつけた。
「◯◯県立病院で医療過誤訴訟――」
たまたま目にしたニュース番組のテロップを見ながら、熱いコーヒーを飲む。
口の中に苦い味が広がっていくのを感じながら、先ほどの夢に思いを馳せる。
久しぶりに見た夢だった。
研修医の頃、指導医の補助に入った緊急手術で、術中に患者が亡くなった。
他の医師が別の手術で手が足りず、初めて助手として入った手術だった。
経験不足と緊張で、今なら難なくこなす手技すべてがぎこちなかった。
決して“ミス”ではない。
周りの医師や看護師、誰もがそう言った。
「助けられる命と助けられない命がある。」
「医者は神様じゃないんだから。」
患者の妻も、決して責めることなく黙って頭を下げた。
だが、父を失った小さな女の子の泣きじゃくる様子は今でも脳裏に焼き付いている。
脳外科医としてキャリアを重ねた今も、時折夢に見るのは、きっと未熟だった自分の不甲斐なさを感じているから。
今ならもっと良い対応が取れたかもしれない。
だが、もう亡くなった命は戻らない――
悠はテレビを消し、静かなリビングでコーヒーを黙って啜った。
*
結局、悠はいつもよりも少し早く出勤した。
日勤が出勤してくる前の、脳外科のナースステーション。
夜勤スタッフの顔には、疲労の色が浮かんでいた。
「あ、おはようございます。今朝は早いですね。」
看護師長の竹山友香は、悠に気づくと挨拶した。
「おはようございます。夜、大変だったの?」
「悠先生が帰った後、救急搬送2件です。それからICUの佐竹さん、急変で阿部先生が急遽オペに入りました。」
その口ぶりからさぞかし大変な夜を過ごしたのだと伝わってくる。
「そうか、それはお疲れ様。」
悠は小さく笑い、ナースステーションの奥の医局のドアを開ける。
ソファで横になって仮眠をとっていたのは、当直だった阿部先生こと阿部貴志――彼は、悠の医大時代からの同期だった。
「え、悠……もう8時?」
薄目を開けて悠の姿を確認した貴志は、慌てて腕時計を見る。
「いや、ごめん、まだ7時前だ。」
「なんだよ、今寝たばかりだったのに……」
「ごめん。夜忙しかったんだろう?何かあれば対応するから。」
悠の言葉に小さく礼を言い、貴志は再び目を閉じた。
悠は極力物音を立てないようにしながら自分のパソコンを起動する。
担当患者の夜間の状況、さっき師長が言っていた急患のカルテ、貴志の緊急オペの記録――
週末の学会発表の準備のため早くに出勤したはずが、雑多な確認を進めるだけで時間が経過していった。
「……おはよ。」
8時前に鳴った小さなアラームで、貴志が身体を起こす。
「ソファで寝たら身体にくるなぁ。もう若くないってことか……」
肩をぐるぐると回す貴志に悠は苦笑する。
「仮眠室にいけばよかったのに。ここよりはマシだろ。」
「そうだけど。どうせすぐ呼び出しかかると思ったから。」
貴志はストックしている缶コーヒーを開けながら、当直がいかにハードだったかを悠に語った。
同じ科の同期として、日々切磋琢磨しあう関係ではあるものの、気の置けない友人との束の間の会話は、1日の仕事の始まりに、少しの安らぎを与えてくれた。
「あ、話が変わるんだけどさ。」
ひと通り話を聞き終えた悠が、パソコンに向き直ろうとしたとき、貴志が不意に口を開いた。
「今日の午前中、悠、外来担当だろ?」
「あぁ。」
「田口病院からの紹介――新患のカルテ登録されていると思うんだけど。」
「田口病院、と……」
悠は言われるままに電子カルテにアクセスする。
「あぁ、あった……脳腫瘍の疑いありで、精密検査希望、か……高野沙理――この人がどうかしたのか?」
「俺も、昨日、院長に言われて気づいたんだけど……覚えているか?高野優作さん――俺たちが研修医の時に亡くなった脳腫瘍の患者。あの人の娘さんなんだって。」
「え……」
悠は驚いてカルテの患者情報を確認する。
確かに、父欄には亡くなった高野優作の名前があった。
今朝方、悠が見た夢の中で亡くなった患者本人だった。
「じゃあ沙理って……あの小学生だった女の子ってこと?」
「そうだろうな。俺たちが散々かくれんぼに付き合わされたガキが、今では女子高生だぞ、JK。時の流れが早すぎて焦るな。」
悠はおどける貴志とは反対に、真面目な顔でカルテを睨んだ。
「……院長からは、悠が気まずそうなら外来代わってやれって言われているけど。どうする?」
「あぁ、まあ少しは……だけど代わってもらうほどではない。」
悠は自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「あれから10年経っているんだ。あのときよりは俺も大人になっている。」
「そうか。オッケー、予定どおり、ということで。」
貴志はそう言うと、「顔を洗ってくる」と医局を出ていった。
悠はカルテを見ながら、幼かった少女の泣き顔を思い出していた。
*
「次の方どうぞー」
看護師のアナウンスで診察室に入ってきたのは、沙理だった。
記憶の中の沙理は、小学校に入学したてだった。
ピカピカのランドセルが不釣り合いに大きく、いつも元気いっぱいに病棟内を走り回っていたのを覚えている。
だが、目の前にいる沙理は高校の制服――紺色のセーラー服に身を包み、ハーフアップにまとめた黒髪が大人びて見えた。
「こんにちは。」
悠は“いつも通り”を心がけて挨拶をして椅子に促す。
だが、悠の顔を見つめた沙理の
「あ……お兄ちゃんだ!悠お兄ちゃん!そうでしょ?」
との無邪気な言葉に、一気に時が10年前に戻されたような感覚に襲われた。
「あぁ……久しぶりだね。」
少なくとも、沙理も、娘の様子を呆れたように見る母も、優作の術中死に関して悠を恨んでいるわけではなさそうだった。
その真実に胸を撫で下ろしつつ、悠は医師として沙理に向き合った。
「今回の検査入院、僕が担当させてもらうね。MRIとCTで脳の画像を確認します。脳波も調べて、異常があるのかないのか、あった場合どう対処するのか――それを考えたいと思います。」
悠はいつも通り丁寧に説明をしていく。
不安に感じているであろう、本人にも保護者にもわかりやすく――
忙しい中でも崩さないその姿勢は、悠が評価されている理由でもあった。
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