やどかり
白銀 白亜
第1章ー1
1章 初めての宿替え
1
大学の期末期間に差し掛かり、キャンパスはどこか殺伐とした空気に包まれていた。図書館の椅子は埋まり、自習室では過度な静寂とキーボードの音が支配している。俺――早瀬陸は、その隅を早歩きで抜け、講義終わりの夕暮れに吸い込まれるように外へ出た。
冬の寒さは、大学の敷地を出た瞬間に皮膚へ刺さる。風を切るたび、胸の奥がぎゅっと縮まる。今日のバイトは夜まで。課題も残っている。奨学金の返済はまだ始まっていないが、毎月の生活費で精一杯だ。
そういう生活が一年以上続いているせいで、毎日が“消費”されていく音しかしない。
友達はほとんどいない。飲み会やサークルに参加すれば金が飛ぶ。行く気力もない。大学に進学したのだって、本当は自分の意思じゃない。親が「せめて大学だけは行け」と言ったから、その通りにしただけだ。
だからか、親とは今も距離がある。連絡すれば喧嘩になる。連絡しなくても、心は遠いまま。頼るという選択肢が、自分の中に最初から存在していなかった。
今日もバイトへ向かおうと、アパートのポスト前を通りかかった時だった。
ポストに、白い封筒が差し込まれているのに気づいた。
差出人は大家。
赤字で「重要」とある。
嫌な予感しかしない。
封筒を破ると、「建物賃貸借契約終了通知書」という文字が飛び込んできた。
――老朽化により、現行の建築基準を満たさず、賃貸として貸し続けることが困難なため、三ヶ月以内に退去をお願いしたい。
「……は?」
声が勝手に漏れた。
理解したくない、というか、理解する気が起きないというか。
通知を握りしめたまま、俺は1階の大家の部屋へ向かった。
「ごめんね、早瀬くん。本当にね、私も困ってるのよ」
出てきた大家さんは、申し訳なさそうに眉尻を下げていた。
彼女が悪いわけじゃない。
でも “家がなくなる” という事実が心のどこかで暴れている。
「基準が厳しくなったって役所から言われてね。修繕するにもお金がかかるし……貸し続けるのは無理ってことになっちゃって」
「そう……ですか」
あまりにも淡々と答えてしまって、逆に自分の声に違和感を覚えた。
本気で困っているはずなのに、焦りが出ない。
焦る気力すら、湧いてこなかった。
部屋に戻り、畳の上に座り込む。
息が白くなる室温の低さが、今の俺の生活そのものを示しているようだった。
大学は通う。
バイトで生活を維持する。
寝る、起きる、また通う。
その繰り返しで、気づけば一年――
夢なんて考えたこともない。
そして今度は、住む場所すら失う。
バイトまでの時間が迫る中、とにかく現実を動かすしかなかった。
翌日俺は不動産会社へ足を向けた。
新しい物件を探したい、と告げると、担当者は明るい声で案内を始めたが、条件を聞いた瞬間、表情が止まった。
「家賃一万五千円……ですか?」
「今がそれくらいで、できれば、同じくらいで……」
「えっと……一万五千円は……かなり厳しいですね。最低三万円は覚悟していただかないと」
やっぱりか。
知ってた。
でも、聞くとやっぱり刺さる。
奨学金で学費、バイトで生活費。
これ以上の負担を抱えたら、俺の生活は本当に破綻する。
「ただ……条件付きで一万五千円の物件が、ひとつだけあるんです」
担当者が突然言った。
「……条件付き?」
「シェアハウスなんです。けっこう古い建物でして……。ただ、家賃は前と同じくらいです」
シェアハウス。
知らない人間と一緒に住むなんて、絶対に面倒なやつ。
「それともうひとつ。入居条件が、“夢を持っている若者”という……ちょっと特殊なもので」
「夢……寝るときに見るやつですか?」
皮肉のつもりではなかった。ただ本当にそう思っただけだ。
「大家さんが面接で、それを見たいらしいんです」
担当者は苦笑しながら資料を差し出した。
「丹野志荘(たんのしそう)という名前の物件です。とても古いですが、大家さんは優しい方のようですよ」
「……丹野志荘」
なんだか読み方に癖のある名前だった。
大学を選んだのだって“なんとなく”。
未来なんて考えていない。
そんな俺が行っていい場所なのか?
でも、他に選択肢はない。
「……見に行くだけ、行ってみます」
俺の声はどこか空っぽで、それでも、どこかで“変わることを期待しているようにも”聞こえた。
退去通知が入っていたあの瞬間から、
俺の人生は、変わり始めた。
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