死のそばに立つ者
濃紅
第1話
これは夢だ。
私は、はっきりとそう認識していた。
眠っていた感覚はない。けれど、この光景には現実特有の重さが欠けている。空気は冷たく、地面は確かに足裏を支えているのに、どこか希薄だ。輪郭が曖昧で、少し意識を逸らせば溶けてしまいそうな気配がある。
白昼夢。きっとそれが一番近い。
私は身を起こした。
その瞬間、関節の奥でぬるりとした感触が走る。骨が擦れる音ではない。もっと柔らかく、溶けかけた蝋を押し戻すような、不安定な違和感だ。
「……身体が重い。」
独り言が零れる。声は静かで、どこか幼さを含んでいた。
視線を落とすと最初に目に入ったのは、足元まで流れ落ちる銀糸の長い髪だった。月光を受けて淡く反射し、指で掬えばそのまま零れ落ちていきそうなほど細い。
身体には、黒い布が無造作に巻き付けられている。衣服と呼ぶには形が曖昧で、布切れを重ねただけのようにも見えた。それでも不思議と、寒さや不快感はない。
肌は青白く、血の気というものを感じない。
触れれば冷たいはずなのに、感覚としてはそう認識されない。節々は輪郭が曖昧で、蝋燭が熱に晒されたまま固まりきらなかったように、わずかに溶けた形を保っている。
人の形をしている。
けれど、人ではない。
「……最近眠りが浅いのかも。」
自分に言い聞かせる。
読み漁ってきた物語の影響だろうか、脳が勝手に、それらしい舞台と役割を用意しただけだ。そう納得しようとした、その時だった。
足元に、一本の武器が落ちている。
柄の長い武器。大きく弧を描いた刃が、月の光を冷たく反射していた。
鎌だ。
私はそれを拾い上げ、何の気なしに刃の内側を覗き込む。
映った姿を見て、思考が止まった。
顔が、よく分からない。
形はあるはずなのに、影が濃すぎて輪郭が定まらない。眼窩の奥は暗く、表情というものが存在しない。
──なるほど。
私は鎌を一度地面に突き立て、背筋を正した。
「失礼。あー……あー……」
意識を切り替える。声の調子を整え、落ち着かせる。
夢の中であっても、周りに誰も居ないとはいえ、情けない姿を晒すのはあまり好みではない。
「…私が何者であるかはおおよそ察しがつきますね。」
鎌に映るその姿は、どう見ても歓迎される側ではない。
ならば、それらしく振る舞いたい。──こんな心躍る夢なんてなかなか見れるものではないし。
「さて。夢の続きと参りましょうか。」
物語とは、役者が舞台に立った瞬間から動き出すものだと考える。
であれば、私は──この役を演じるだけでいい。それっぽい台詞を並べるのは不得意ではない。
◇
気配に気づいたのは、歩き出してから直後だった。
音はない。けれど空気がわずかに揺れている。
何かが、そこに「留まっている」感触。
崩れた壁の影。瓦礫の隙間。
月明かりの届かない場所に、それはいた。
小さい。
輪郭は曖昧で、形を保てていない。それでも、人の形をしていることは分かる。
幼い魂だった。
泣き声はない。ただ、感情だけが伝わってくる。怖い、寒い、分からない、帰りたい。
死を理解していない魂であるからか、混濁した揺らぎ。
胸の奥が、ひどく重くなった。
「……そうか。」
私は一歩、近づこうとして──止まる。そして気づく。
右手が、鎌の柄を掴んでいる。
刈るつもりはなかった。
それなのに、身体だけが先に動いている。
──危険だと判断したわけでもない。
ただ、そうするものだと、
身体が覚えているような感覚だった。
鎌が、重い。
意志に関係なく動く身体とは対照的に、握る手は酷く震えている。
──やるのか。
問いかけた瞬間、胃の奥が強く締め付けられる。
夢だ。
これは夢で、現実ではない。
それでも、小さな命を刈り取る立場を与えられて、平気でいられるほど、私は出来ていなかった。
これは楽しいものではない。
はっきりとした悪夢だ。
視界が滲む。
いや、違う。
魂が、見えなくなっている。
「……待て。」
焦りが走る。だが、どうすればいいのか分からない。掴み方も、留め方も、刈り取り方も──何も知らない。
ただ、何も出来ないまま立ち尽くす。
その時、小さな光が顕れた。
淡く、柔らかく、眩しすぎない光。
月光とは違う、穏やかな輝き。
光は、子供の魂を包み込む。
冷たかった空気が、少しだけ温んだ。
張り詰めていた緊張が、静かにほどけていく。
泣き声は、もう聞こえない。
代わりに、安心したような静けさが広がっていた。
魂は、私の手をすり抜けるように──優しく、ほどけていく。
縛られることも、留められることもなく。
ただ、自然に。
光は薄れ、やがて、何も残らなくなった。
私はその場に膝をついた。
鎌が地面に触れ、小さな音を立てる。
「……。」
私は、何もしていない。
刈り取ってもいない。
ただ、出来なかっただけだ。
それでも、魂は消えた。
怨みも、痛みも、残さずに。
胸の奥に、重さが残る。
だが、それは拒絶ではなく──理解に近かった。
「……夢でも、これは嫌だな…。」
小さく、そう呟く。
ならば、この悪夢の中で、どう振る舞うか。
少なくとも、それだけは自分で決めよう。
私は鎌を静かに握り直した。
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