ちょっと危険な、お散歩~グールのおじさんを添えて~

R666

プロローグ

 二千七十七年、十月二十三日。その日、世界は終焉を迎えた。

 長きにわたる冷戦の末、アメリカと中国がついに、一線を越えたのである。

 両国の緊張は臨界点に達し、核兵器の使用という取り返しのつかない一手が切られたのだ。


 その瞬間、人類の歴史における最も短く、そして最も破壊的な戦争が幕を開け、わずか二時間で幕を閉じたのである。


 この戦争によって地球上の何億もの命が失われ、政府機関も経済も、さらには地球環境そのものも崩壊した。

 

 大気は毒に満ち、気候は劇的に悪化し、生態系は永遠に変貌を遂げたのである。

 ――――しかし、その日の沖縄の空は、どんよりとした鉛色の空気に覆われていた。 


 湿り気を帯びた空気には、海風の塩気に混じり、硝煙と油の臭いが漂う。

 地面には砲弾の破片が散らばり、倒れた兵士たちの血が雨水と混じり合い、赤い泥濘を作り上げていた。


 周囲には防衛線を維持しようとする兵士たちの怒号が響き、機械的な銃声と爆発音が途切れる事なく大地を震わせている。


 そして黒崎大介くろざきだいすけと呼ばれる若き男は、日本防衛軍の第八師団に所属し、本土防衛の要として沖縄の最善に立っていた。


 日本の存亡を賭けた戦いは、既に極限の消耗戦へと突入しており、敵の物量と戦術の前に守備側は苦戦を強いられる。


 中国軍の侵攻は苛烈を極め、陸地だけでなく空と海からも、執拗に攻撃が加えられていた。

 大介は疲弊した身体を酷使しながらも銃を握る手に、わずかに残された力を込めて敵兵を迎え撃ち続ける。


 彼の身体には既に、いくつかの傷が刻まれ軍服は泥と血にまみれていたが、その目には決して揺らぐことのない覚悟が宿されていた。

 しかし、全ては突如として終わりを迎える。


 戦場に鳴り響く警報音は、これまでのどの音とも異なり、耳障りなほど高い金属音を帯びていた。

 その音は兵士たちの鼓膜を震わせ、戦場に一瞬の静寂をもたらしたのである。

 その瞬間、彼らは直感的に悟った。


 それは核兵器の到来を告げるものであり、既に逃げ場など何処にもないのだと。

 そして閃光が世界を包み込んだ。


 白熱する光が視界を焼き尽くし、空気が急激に膨張して大地を揺るがす。

 圧倒的な衝撃派が全身を叩きつけ、皮膚は焼けただれ、骨の髄まで炎が寝食する感覚に襲われる。

 

 熱と衝撃が身体を突き抜ける中、意識は深い闇へと引きずり込まれ、全てが消え去ったかのように思えた。


 そして次に目覚めた時、大介は既に人間ではなくなっていたのである。

 周囲に広がるのは、廃墟と化した風景だった。

 建物は黒く焼け焦げ、地表には放射線に汚染された灰が積もっている。


 大気には独特の金属臭が漂い、耳を澄ますと遠くから呻き声のようなものが聞えた。

 その時、彼は初めて自身の肉体が、腐敗している事に気がつく。


 皮膚はただれ、指先の肉は崩れ落ち、目の前に映る自分の手が、もはや人間のそれではない事を告げていた。

 そして圧倒的な飢えが、大介を苛んだのである。


 理性を保ちながらも、彼の身体は本能的に、生存の為の手段を求めた。

 周囲には放射線に蝕まれた死体が散乱しており、それらの肉を食べる事で大介は辛うじて命を繋ぐ。


 自分自身が何をしているのか、それを理解しながらも止める事はできなかった。

 そうしなければ、生き延びる事は出来ないと、知り得ていたからである。


 それから日々の中で、大介と同じように変異した存在、グールと呼ばれる生きる屍たちが集まり始めた。


 彼らもまた飢えと孤独に耐えながら、破滅した世界の中で彷徨うのである。

 ――そして核が落とされて瞬く間に、二百年という歳月が過ぎていく。


 日本列島の風景は、完全に変わり果てていた。

 かつての都市は崩壊し、荒廃した建物が、無秩序に積み重なる。


 放射線に汚染された大地には、異様な進化を遂げた動物や昆虫、そしてもはや人間とは呼べない存在が闊歩していた。


 一部の人々は瓦礫の中から文明の再建を試み、新たなコミュニティを形成していたが、それらの努力は放射線の脅威と、絶え間ない争いによって何度も挫折を繰り返す。


 大介は、その全てを目にしてきた。

 彼は日本全土を何度も渡り歩き、荒野を越えて復興を目指す人々の希望と、絶望の両方を目にしてきたのである。


 そして今日もまた、大介は放射線に汚染された土地を歩いていた。

 事前に、木の枝にロープを掛けて吊るし、干していたグールの肉をナイフで削ぎ取り、その場で口に運ぶ。


 遠くの空には鉛色の曇り、冷たい風が頬を切るように吹き抜けている。

 腐敗臭が漂う中、彼は無表情で肉を咀嚼しながら、朽ち果てた世界を見つめていた。

 これが、黒崎大介の生きる道である。




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