《宮女、危うきに近寄らず》廃宮の修復師は偽りの愛を繋ぎ合わせる 〜弥宝の鑑定録〜
いぬがみとうま
第1話 依頼は欲望に負けて受けるもの
「そんなもの引き受けるわけありませんよ」
断ったのだが――。
(なんでこう、私の周りには面倒な奴しか寄ってこないのか)
弥宝は手にした竹箒をこれ見よがしに動かし、足元の落葉を蒼彗の靴の方へと追いやった。
「つれないな。君のその腕があれば、一晩で済む仕事だと思うのだが」
蒼彗は、落葉が高級な革靴に触れる直前で軽やかに身をかわした。
この男は、顔だけはいい。後宮の女たちが並んで歩けば、間違いなく全員が振り返るだろう。だが、その微笑の裏側には、底の知れない悪意というか、人を駒としてしか見ていない冷徹さが透けて見える。弥宝が最も嫌う人種だ。
「
「ふむ。昨夜、
ぴたり、と箒が止まった。
(……チッ、見られていたか)
弥宝は無表情を装ったまま、内心で舌打ちした。
「また何か言いに来たんですか?」
「内侍府の役人様が、私なんかに何の用でしょうね」
「弥宝、失礼よ。蒼彗様はわざわざ君の仕事ぶりを見に来てくださったんだから」
小鈴は、頬を赤らめて蒼彗を見つめている。これだから面食いは困る。
「では、私は仕事に戻りますので」
弥宝は足早にその場を離れた。
宿舎に戻り、汚れ仕事を終えた後の
「今日の夕餉は何?」
「干し肉と大根の煮込み。それと、お裾分けでもらった
「いいですね。お腹が空きました」
弥宝は竈の火を見つめながら、指先の感触を確かめる。
彼女の指先は、他の宮女のように白く滑らかではない。長年、
夕餉の煮込みは、少し塩気が強かったが、肉の旨味がしっかりと大根に染みていた。弥宝は花巻を半分に割り、その間に熱々の煮込みを挟む。
「美味しい。小鈴、これ、明日の朝の分も残ってます?」
「欲張りね。ちゃんと取っておいてあげるわよ」
食事を終え、三分の一ほど湯を張った湯舟に浸かる。一日の疲れが溶け出していくような感覚。だが、頭の片隅には、先ほど蒼彗が口にした「仕事」のことがこびりついて離れない。
(夜な夜な血を流す掛け軸、か)
そんな怪談、弥宝に言わせれば「物理的な現象」でしかない。
湿気で変色する顔料。裏側に仕込まれた毛細管現象。あるいは、単純に誰かが夜中に塗っているだけ。
だが、蒼彗がわざわざ自分に接触してきたということは、それがただの悪戯ではないことを示唆している。
翌朝、またしても蒼彗は現れた。
今度は、手に小さな文箱を持っている。
「断りに来たと言ったはずですが」
「まあ、これを見てから決めてくれ」
蒼彗が蓋を開けると、そこには銀色に輝く奇妙な
「……ッ!」
弥宝の目が、一瞬で獲物を見つけた獣のように鋭くなった。
「これは、西域から献上された
「君が昨夜、廃物倉庫で使っていた膠は、随分と安物だったね。あれでは数年もすれば剥がれてしまう。……どうだい、この道具を使って、本物の『修復』をしてみたくはないか?」
蒼彗の唇が、勝ち誇ったように弧を描く。
(……この男、私の弱点を正確に突きやがった)
弥宝は、震える手でその紙に触れた。滑らかな手触り。繊維の一本一本が、極上の芸術品のようだ。これがあれば、あの破れた名画も、完璧に蘇らせることができる。
「……条件は?」
「話が早くて助かる。
「解体、ですか。もし、取り返しのつかないことになっても知りませんよ」
「構わない。君の腕を信じているからね」
蒼彗のその言葉に、弥宝は鼻を鳴らした。
「引き受けます。ただし、この墨と紙は仕事が終わった後に全部私が貰い受けます」
「いいだろう。契約成立だ」
弥宝は、自分の職人気質が、毒よりも恐ろしいものに自分を惹きつけていることを自覚していた。
呪い? 幽霊?
そんなものは、糊と
彼女は、蒼彗の差し出した道具を奪い取るように受け取ると、李妃の住まう
それが、後宮を揺るがす巨大な陰謀の、ほんの一枚の「皮」を剥ぐ作業になるとも知らずに。
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