第2話 真っ暗な中で すれ違う二人
愛らしい彼女の、まったく愛らしくない、お願いを聞いて。
少しばかり冷静さを取り戻した俺の疑問はシンプルだった。
つまり、どう見ても一般人でしかない俺に、殺人――それも、皆殺しなんていう大量殺人を依頼してきたのか、その理由だ。
もちろん、俺は格闘技なんてやってない。
痛くするのも、されるのも小さな頃から好きじゃないし、運動神経は人並みで、部活は帰宅部だ。
そんな俺に、よりにもよって殺人なんてものを依頼する理由が知りたかった。
「⋯⋯どうして俺なのか、聞いてもいいか?」
「──先輩、それ、本気で言ってるんですか?」
質問に質問で返され、俺は何も答えることができなかった。
これがさっきまでの明るいノリなら、間違いなく、本気で言っている、と答えただろう。
でも、彼女の発した声が、何かにすがるより他はないような、痛ましいモノだったから。
だから、無理やり言葉を飲み込んだ。
どうやら彼女の中では、俺に依頼するのが最適解ってことになっているみたいだ。
なんとかしてやりたい、そう思いはするのだが。でも、いくら考えたところで、心当たりがない。
たとえば、今いる空間は、真っ暗な闇としかいいようがなくて、その中にぼんやりと二人が、相対して立っているような状況だ。
さっきまで確かにそこに存在していた通学路。同じように学校へ向かっていた生徒たち。登校風景を形作る全てが、もはやどこにもない。消えてしまっていた。
そんな、現実的にはあり得ない非現実的な状況に置かれてもなお、俺がそんな特別な人間だとは思えなかった。
「本当にごめんな。でも、まったく心当たりがないんだよ」
俺が申し訳なさそうに告げると、彼女の肩が微かに、だがはっきりと震えた。
「先輩、ラスト・ワンですよね!?
「ラスト・ワン?」
その言葉に聞き覚えは⋯⋯ラスト・ワン?
「⋯⋯ふざけてます? それとも、わざと忘れたんですか、
途端に態度が豹変する。もはや、目の前には、さっきまでの愛らしい後輩の姿はない。
高校の制服に身を包んだ、こちらに敵意を向けている女が一人いるだけだ。
「いや⋯⋯ラスト・ワンなんて言葉は──」
その言葉を再度口にした途端、強烈な目まいが襲った。
足ががくがくと震え、歯がカチカチと鳴り、全身の関節が内側からきしむような感覚に襲われる。自分の身体では無いような違和感。
まるで、何者かに意識を強引に掴まれ、激しく振り回されているような、そんな感覚。
踏ん張りが利かずにその場に崩れ落ちる。
その奇妙な感覚は腰を通って、腹部――内臓へ。すべてがうごめき、裏返る、そんな錯覚。嫌悪感。
吐きたくても吐けない。何度も、えづく。
涙目になりながら、地面に転がりながら、必死に手を伸ばしていた。
彼女の優しい手を、慰めの言葉を求めていた。
登校時の、俺みたいな男に好意を向けてくれていた彼女なら、きっと助けてくれる。そう思ったから。
だが、その期待は⋯⋯。
「記憶障害? あぁ、まだ回復しきってなかったんですね。傷を舐めるか、舐められるかしてる最中だった、のかな⋯⋯」
その距離は、あまりにも遠くて。
「⋯⋯そう恨みがましい目でこっちを見ないでください。少しだけ申し訳ないとは思ってるんですから⋯⋯」
欠片も反省してるようには見えない彼女を俺は地べたから、にらみ上げていた。
「仕方ないですね。【言の葉】気を強く持ちなさい」
彼女が言葉を発すると、今まで暴れていた感覚が、無理やり押さえ込まれたかのように静まっていった。
ただ、口の中の不快感だけはいかんともしがたい。胃液が逆流してたみたいだ。
ツバで何とかしようと、ぺっぺと吐き出していると、彼女は近づいてきて、こちらを覗き込んだ。
「一時しのぎではありますが、どうですか? 少しは楽になりましたか?」
物言いから、たぶん彼女が何かをしたのだろう。
得体の知れない力だ。首すじが、チロリと震えた。
俺は軽く頷いてから立ち上がると、服のホコリを叩いていく。
彼女との距離を少しでも取るために、
なるべく自然な動作で。
まあ真っ暗だから、そもそも汚れているかすらも分からないんだが⋯⋯とにかく、こちらから声をかけることはしない。
沈黙だけを返して、向こうの出方を待つことにした。
「あの⋯⋯こっちの管理存在は、何か言ってませんでしたか?」
「⋯⋯管理、存在?」
「もしかして、それも忘れたんですか?」
彼女の目がぼんやりとした暗闇の中でギラッと光ったような気がして。
「いや、待て。たぶんだけど、それってアマテラスとかっていう――」
「そう、
食い気味に思考を先に進めるよう促す彼女。その気迫に押され、なんとか思い出そうとしてみる。
アマテラスとつぶやいて頭に浮かんだのは、ヘンテコな機械だった。
そいつが確か――
「今は休め、そして気の済むまで学校生活を満喫しろって。これから学校行くのに休めっておかしくね? って、思った、気がする⋯⋯で、やりたいことは何でもやっていい、詳しい話はその後だって⋯⋯」
俺はここにいて、それで確か──
いや、待てよ。俺はなんでここにいたんだ?
だって俺は⋯⋯。
なんの取り柄もない高校生で⋯⋯。
それで、あの日、学校が終わって。学校から帰る途中で⋯⋯。
あれ? なんか変だな。
脂汗だ。脂汗が止まらない。それにさっきから聞こえる、この音⋯⋯。
なんだ、これ? なんの音なんだ?
ヒューッ、ヒューッ、って。
やけに耳障りな、癇に障る音。
ヒューッ、ヒューッ、ヒューッ、ヒューッ⋯⋯。
それが俺の呼吸音だと気づくまで、しばらくかかって、突然、その音が消えた。
「あれ? なんで⋯⋯音が、止んだ」
あたりをキョロキョロとうかがう。暗闇の中を。
すると、体が沈んでいってることに気づいた。
ずぶりずぶりと俺の体が沈んでいく。ねばついた地面。真っ暗な、なぜか暗い中なのに真っ暗だとわかる、
くるぶしを超えて、ひざ⋯⋯。そして腰のあたりまで。
ゆっくりと、ゆっくりと、俺を飲み込んでいく⋯⋯。
『まずい!? 【言の葉っ】気を強く持てっ! 落ち着いて! 落ち着きなさいっ!』
――音がする。頭の中から響く、遠い悲鳴や怒声、泣き声。
クラクションとサイレンが混じって、ひどくうるさい。
空が、黒くて暗くて、赤くて紅い。
夕方のはずなのに、さっきまで晴れていたはずなのに。
真っ赤な真っ赤な雨が降ってた。
「⋯⋯左手がさ、無いんだよ。ほら、肘から先が無いだろ? だから傘は右手でささないと。じゃないと雨に濡れちゃうから」
どこにいったんだっけ? 俺の左手⋯⋯。
昨日はあったのに。
あぁ、犬がかじって持って行ったんだ。
クラスメイトの頭と一緒に。
瞬きの瞬間。砂嵐みたいなノイズが見えた――
そこで正面の大きな気配。地面に伏していたそいつは、首をもたげて、こちらの様子をうかがってくる。
あぁ、こんなところに居たのかよ⋯⋯。
ワンコロ⋯⋯。探したんだぜ?
フヒッと息が口から漏れる。
犬は嫌いだ。
吠えて、噛みついてくるから。
『そんな、権能は発動したはずなのに⋯⋯っ、距離が離れすぎてて効果が薄いのか。なら、リスクはあるけど接触で
――先輩っ、ちょっと痛いかもですけど、我慢してください、ねっ!』
目の前の犬が俺に飛びかかってくる。!?早い。いなせない。
そのまま体と体がぶつかり組みつかれた。
俺には左手がないから、引きはがせない。
首筋に生暖かい息が当たって。きっと、このままだとまたかじられちゃうな。今度は首を。
ほどかないとだよな。このままだと、死んじゃうから。
皆みたいに死んじゃうから。
『くぅっ、暴れないで⋯⋯【言の葉っ!】動きを止めなさいっ! ⋯⋯もういい。もう分かったから。もう大丈夫だから⋯⋯ごめんね、ごめんなさい⋯⋯」
どこか聞き覚えのある声。耳のそばで。
するとさっきまで至近距離に感じていた生臭い息、犬の気配が、毛並みの感触が、骨ばった重さが――変わっていた。
俺に抱きついていたのは――後輩ちゃんだった。
「⋯⋯なんで俺に抱きついてるの? 君、あの時あの場所に⋯⋯いなかったよね⋯⋯」
「大丈夫です。もう大丈夫ですよ⋯⋯辛かったですよね、苦しかったですよね。わかります、わたしも⋯⋯でも大丈夫、ここは安全ですから――」
背中を撫でられ、頭を抱え込まれる。
吐息が首に当たって、少しくすぐったい。
そのぬくもりに落ち着いた瞬間、また刹那の砂嵐。違和感が走った。
――なんで俺は抱きつかれてるんだ?
地面をのた打ち回ったとき、必死に手を伸ばしても、彼女は取ってくれなかった。
なのに今は、抱きしめてくれている⋯⋯。
それって、おかしいよな?
俺の知っている彼女は、後輩ちゃんは、
あのとき、俺を見捨てたじゃないか。
蔑むように俺を見下ろす目。
――おかしくない、俺の違和感は杞憂だ
そうじゃない。杞憂なんて思うのは
⋯⋯想っていたいと思い込むのは、
一緒に登校したときの、
俺に好意を持って微笑んでくれていた彼女に、
間違いなく憧れを持っていたから。
だから――
コイツは敵だ。
畜生、思考を読んで知り合いに擬態するタイプまでいたのか。
敵は殺す。殺さなきゃあならない。
だって――
「だって、お前たちはたくさん殺しただろ? 俺たちを。
だったら、こっちも殺さなくちゃな」
「⋯⋯えっ? なにを言って──ああ゛ぁぁああっ!?」
俺は首筋に喰らい付く。そのまま体重をかぶせ、肩を差し込むことで相手のあごを上げてやる。
「……っ、ぐ……っ!?」
相手の呼吸と食いしばりを奪う。
自然界の獣――格下のオスが格上を殺すやり方。
それはつまり、俺が
背後に回された手がびくりと跳ね、立てた爪が、俺の背中に食い込む。
来ると分かっていた攻撃。俺はただ、耐えて待てばいい。
背中をねじ切らんとする力は、だんだんと弱まっていき、やがて⋯⋯。
俺はそっと歯を浮かせ、耳元でささやく。
「残念だったな。知らなかっただろ? 本物の後輩ちゃんはさ⋯⋯俺がめちゃくちゃ苦しんでても、背中なんて、さすってくれなかったよ」
「ち、ちがい――」
俺は力を込めて、一切の躊躇なく急所を噛み切る。噛み切らなきゃならない。
だって――
息が漏れて、悲鳴すら、上がらなかった。
ピンと張って、歯が食い込まないように邪魔していた筋も、簡単に噛みちぎることができた。
――敵は殺さなきゃならないから。
ピタリと組み付いていた体が、びくりと跳ねる。
瞬間、背中を握りしめていた手から、力が抜けた。
「……せん、ぱ、⋯⋯ごめ——」
耳元で囁かれたその声は、ひどく小さくて。
最後まで形になる前に、溶けて消えた。
ただ、俺の背中を抉るように立てられていた彼女の指先が、ささやかな音を立てて、するりと垂れた。
「あ⋯⋯れ、?」
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