第8話
安斎頼造が、糊のきいたシャツに着替え、身だしなみを整えてカウンタに出た時、ちょうど日付が変わった。もうそんな真夜中である。庭仕事から帰ってきて、自室で一息ついた途端、一気に疲れが出たのか、体がだるくなった。まだホテルの仕事が残っている事はわかっていたが、これではとても使いものにならないと思い、七生に断りを入れて仮眠を取った。
泥まみれになっていた時間が長かったためか、どうも食欲が出ず、夕食は抜くつもりだったのだが、高齢の祖父の不養生の気配を察知した七生が、忍者みたいにわずかな隙をついてサンドイッチと熱い紅茶を持ってきてくれた。仮眠が想定よりも長引いたのは、それらが腹に入った満足感のためだろう。しかし、そのおかげで、今は体が軽く、気持ちも適度にリラックスしているのが感じられた。
正装に着替えてカウンタに出ていったのは、佐倉川嬢にきちんと挨拶がしたかったからだ。しかし、一時間ほど前に、二階に戻ったとの事だった。
それを教えてくれた人物が、一人でカウンタの前に残っている。
「何か飲みたい……」雹みたいなサイズの氷しか入っていないロック・グラスをからころと鳴らして白津透が呟く。
「おまえさんがそう言う時は、たいていもう飲んどるし、言うとおりに飲ませたら、翌朝ひどい顔をしとるもんだ」頼造は冷蔵庫を開け、ブドウのジュースのパックと、数種類のフルーツを取り出した。フルーツの皮を剥き、カットするためのナイフも用意する。
「出来るまで、少し時間がかかる。お手洗いにでも行ってきなさい」頼造はフルーツを水道水で洗いながら言った。「水がいるかね?」
透は黙って頷く。
頼造は新しいグラスを出して、氷を入れ、ミネラル・ウォータを注いで彼女の前に置いた。透は、それを静かに飲むと、立ち上がり、どこかへ歩いていった。
しばらくすると、席を立った時よりも幾分か冴えた顔つきで戻ってきて、チェス盤と、好き放題に広げられていたチェスの駒を丁寧に片づけた。
その頃には、頼造が火から下ろした鍋の中で、薄く切られたオレンジやレモン、イチジク、リンゴ、それに後から足したシナモン・スティックが、すっかりブドウのジュースの紫色に染まって、風味が液体に移った事を示していた。濡れた布巾の上に鍋を移し、粗熱を取った後、とろ火で温めながら、蜂蜜で甘さを足す。
出来上がった飲みものを耐熱性のカップに注いで差し出すと、透は子どものように両手を真上へ持ち上げた。
「ホット・サングリアだ」彼女は弾んだ声で言う。「ワインじゃないから、モクテルだね」
「儂が作れるのは、精々これくらいさ」頼造は手を拭きながら答える。「これは、サービスだ。すまなかったな。疲れているのに、庭に連れ出したりして」
透は、きょとんとした表情で静止した後、ぶるぶると首をふった。
「違う、違う……、そんな事でやけ酒を呷ったりしないよ」そう言って、カップの中に目を落とす。「年下の女の子を相手に、大人げない事をしたなあって……」
透はサングリアを一口飲み、ちらりと上を見る。二階にいる佐倉川嬢の事を話しているのだ。
「自分から誘っておいて、いざ到着してみると、一人で好きに寛げる時間の少なさに苛々するんだよ。向こうからしてみたら、本当、いい迷惑だよね」
「七生から申し送りは受けとるよ」頼造は頷いた。「おまえさん、夕食の席で、ずいぶん熱心にここを売り込んでくれたそうだね。そんなに大事な取引先なのかい?」
「うーん、そうでもない」透はカップに口をつけながらぐるりと目を回す。「いや、そうとも言えるかな……、とにかく、ここに連れて来たのは……」
しかし、そこからしばらく、透は何も話さなかった。
一口、二口とモクテルのサングリアを飲み、残りが半分ほどになったところで息を漏らした。熱い液体を飲んだためか、目が潤んでいる。
「たぶん、罪悪感があるから」
「大雨になって、潟杜に帰れなくなったからかい?」
「ううん」透は首をふる。「もっと、前の事」
それきり、彼女はその話題について、本当に口をつぐんだ。
カップに入っているのが冷たい飲みものだったなら、きっと一気に飲み干して、部屋へ帰っていただろう。それが出来ないので、懺悔するように目をつむり、じっと両手で包むようにカップを持っていた。
やがて、顔を上げた時には、瞳の奥にあった憂いが消え、さっぱりとした明るい表情になっていた。
「あのね、おじいちゃん。わたし、ここが大好きで、この先もずっと良いホテルであってほしいって、心からそう思ってる」そう言って、透は両手を組み、カウンタの上に身を乗り出した。「だから、人手が足りない時は、いつでも頼ってね。即戦力になりそうな奴らを、二、三人くらいなら引っ張ってこられるから」
頼造は片方の眉を上げた。
プラム・ポマンダ・ホテルは家族経営で、しかも、二人しか従業員がいない。滅多に客が来ないので、それで十分だという事もあるが、もう一つ、安易に従業員を増やせない理由があった。求人広告を出していないのも、そのためである。透は、そちらの方の話をしているのだ。
頼造は洗い終えたナイフの水分を拭い、ため息をついた。
この年齢になっても、医者の世話にならない生活を続けられている。病院と名の付く場所に行くのは、年に一度の健康診断の時か、風邪を引いた時くらいだ。しかも、後者の頻度の方がずっと低い。奇妙なくらいに健康なのである。オーナの仕事も、あと五年は続けられる自信があった。
だが、将来、七生に跡を継がせるのならば、漫然とその幸運に甘えてもいられない。同じ職場で、同じ仕事をしていても、オーナという立場になって初めて見えてくるものもあるのだ。まだ若い七生には、きっと、そういう経験が必要だろう。最初のうちは、上手くいかない事がたくさんあるかもしれない。
そういう場面で、しっかりと彼女を支えてやりたいと思うのなら、やはり、体が動くうちに交代するべきなのだろう。
「そうさなあ」頼造は、キッチンの隅から木製の丸椅子を持ってきて、透と向かい合う形で腰を下ろした。「近々、そういう決断をしなきゃならんとは思っているよ」
「やっぱり、七生ちゃんに継いでもらうの?」
「ああ」頼造は頷く。「おまえさんから見て、どうかね、やっていけると思うか?」
「わたしは三つ星ホテルの審査員じゃないよ」透は苦笑する。「でも、大丈夫でしょう。東京っていうシビアな場所で、十分な経験を積んでいる。英語も出来る。それに、七生ちゃんは、自分が責任者の立場になった時の事を、ちゃんと考えているよ。どういうルートで、どんな人材を採用するかとか、ホームページを作るとしたら、何を参考にするべきかとか……。そういうものを変えていくには、おじいちゃんの許可をもらわなきゃいけないって、ちょっと緊張していたけれど」
「儂の許可なんぞいるもんかね」頼造は口元を斜めにした。「一度、身を引くと決めたら、ここはもう七生のものだ。儂は口出しせん。許可がいるとしたら……」
「一筋縄ではいかない隣人達」透が続きを口にする。
「そうだ」頼造は頷いた。「彼らとうまくやっていく道を見つけなければ、ここでは暮らしていけない。若過ぎるとなめている奴もいるだろう。よく視える目を持っている事を、ありがたいと思う奴も、鬱陶しがる奴も、欲しがる奴もいるだろう。近づき過ぎちゃいかん。だが、離れ過ぎても駄目なんだ」
「それは、七生ちゃんも理解していると思う」
「ああ、そうだな……」ふいに、強い感情がこみ上げてきて、頼造は片手をぐっと握りしめた。「だが、七生は……、あの子は、それを理解した上で、ここに生きるものすべてを愛している。おぞましいものを目にしても、自分が傷つく事があっても、慈しむ気持ちを捨てられないんだ」
「東京の店で、相当良い条件で引き止められても、断ってこっちに戻ってきたくらいだものね」
「申し訳ない事をしたと思っとるよ」
「それは違う」透は首をふる。「七生ちゃんは、初めからここで働くつもりで東京へ出た。その選択に、絶対、後悔なんてしていない」
頼造は、顔を上げ、透がカウンタの端に移動させたチェス盤をじっと見た。そして、深く息を吸って、
「おまえさんにも、まだ話していない事がある」と切り出した。「実はな、それを使って、よく、しづ江と指したんだ」
「え?」九年前に他界した妻の名を聞いて、透は目を丸くした。「でも、しづ江さん、ルールは全然わからない、って」
「ああ、だから、体だけ貸していたんだよ」
透は、一瞬の間を置いて、すぐに眉を開いた。仕事柄、さすがに理解が早いようである。
「ここに、儂らの暮らしている世界からは隔絶された王国がある事は、知っているな?」
「うん」透は頷く。「〈猫の王国〉だね」
「そうだ。その中に、チェスの対局相手を探している者がいたんだ。どこで覚えたのかは知らんが……」頼造は顎をなでながら話した。「彼らの言葉をそのまま借りるなら、しづ江は『乗りやすい』体質だったらしい。乗られている間は、本人の意識は眠っているようなもので、自分が何をしたのか、誰とどんな会話をしたのか、覚えていない。だが、儂は確かに、そのチェス盤を挟んで、しづ江とともに長い時間を過ごしたんだよ」
透は、再び眉根を寄せ、頼造を見つめていた。この程度の話なら、今の彼女の周りにはいくらでも転がっているはずだ。どうしてこんなにもったいぶって話すのか、と考えているのに違いない。
「その時にだけ使う、と決めている特別な場所があった」頼造は続けた。「しづ江が最後にいたのは、そこだった」
透は息をのみ、片手で口を覆った。
妻のしづ江は、頼造ほど体が丈夫ではなかった。凍った道で足を滑らせて、骨を折った事もあったし、薬もいくつか飲んでいた。しかし、命に関わるような持病はなく、ホテルの仕事も家事も、趣味の園芸も、まったく問題なくこなしていた。
だが、九年前の夏の朝、彼女は遺体となって見つかった。
朝になっても姿を見せないので、敷地内をくまなく探し、彼女が出かけていきそうな場所へ電話もかけてみたが、行方がわからなかった。
まさか、と思い、その場所へ向かうと、妻は目を閉じて椅子に座っていた。まるでうたた寝をしているだけのような、穏やかな表情で、外傷もなかったが、生きている人間の肌の色ではなかった。
頼造が、自分で通報し、警察による捜査が行われたが、事件性はないと判断された。
つまり、頼造に気づかれずに、夜のうちに外へ出て、椅子に座った後、急性かつ致命的な症状によって死亡した、という事になる。
この現場の状況は、七生はもちろん、彼女の両親も、葬儀に来てくれた知人や友人、そして、透も知っている。だが、そこが何のために使われる場所で、そこでしづ江がどのような役割を果たしていたのか、という点については、これまで誰にも明かさなかった。その日以来、対局相手からの連絡がふっつりと途絶えたからである。
〈猫の王国〉の民を見かける事は、それまでと同じようにあった。付き合いが長い者の中には、しづ江の死を理解している者もいて、二言三言、弔いの言葉をかけてくれる事もあったが、何か知っている事がないか、と訊ねると、決まって皆、闇の中に姿を消してしまった。
「そんなの、絶対に……」
透は、そう言いかけて、ぐっと唇を噛んだ。
長年、親交のあった〈猫の王国〉の民が、しづ江の最期について訊ねようとすると、年齢も地位も関係なく一様に口を閉ざす。
この頃では、もしかしたら、自分がチェスの相手をしていたのは、彼らの中でも最上位にいる者ではなかったか、とさえ思えてくるのだ。だから頼造は、この思いつきを、今まで誰にも話してこなかったし、それを察した透もまた、口をつぐんだ。
透は、無言でチェス盤を見ていたが、やがて何かを断ち切るように顎を引き、厳しい視線で頼造を見すえた。
「七生ちゃんにも、今の話を聞く権利があると思う」
「そうだな……」
頼造が頷こうとした時、足元で、かちゃりというような音がして、次の瞬間、一匹の猫が透の隣に現れた。バランスを取って、椅子の座面に座っている。耳が大きくて、瞳、そして尻尾の先と胸元の一部の毛は白金色、残りは黒色と茶色の斑模様だった。貫禄に満ちているが、まだ老いの気配はなく、全身に力をみなぎらせている。
「
そう言って、彼女はちらっと頼造の顔を見る。今の話を聞かれただろうか、と気にしているのだ。
「いやはや……」頼造はゆっくりと首をふって、それを受け止めた。「私も驚きました。もしや、今夜の嵐で、何かまずい事でも起こりましたかな」
この猫は〈猫の王国〉の中でもかなり重要な役職に就いている。そのため、敬意を示す意味も込めて、普段はその役職名で呼んでいるのだが、それとは別に、グレンという名も持っていた。
「そのとおりだ」グレンは、低く響く声で答え、尻尾の先を揺らしながら透を睨んだ。「トオル。お前がここにいるのは偶然か? お前が、あれを連れて来たのではないのだな?」
「え?」透は、困惑の表情を浮かべ、頼造を見た後、グレンに向き直って首をふった。「申し訳ありません。何の事か、さっぱり……」
「嵐とともにやって来た」グレンは
グレンは、カウンタに視線を落とした。
「あれを蝕んでいるのは、あれに与えられた力そのもの。本質と釣り合っていない、凶暴な力だ。それを無理に押し込まれたせいで、体のあちこちで反発して、絶え間なく傷を生み続けている。慈悲深き我らが女王陛下は、せめて、安らかに逝けるように手を貸そうとなさったが、ひそかに彼に同情する者がいて、どこかに匿ってしまったのだ」
「そんな……」透がひきつった笑みを見せる。「同情したって、出来る事なんてないでしょう?」
その問いに、グレンはなぜか、頼造の顔を見て答えた。
「代わりの体を用意してやれば良いのさ」
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