第3話
十八時半になり、女性三人がレストランに再び集まった。
利玖も透も、チェックインした時と服装が変わっている。透の方は、多少カジュアルな装いになったくらいで、ほとんど変化がなかったが、利玖は七分袖のセータにフレア・スカートという滅多にない組み合わせだった。店でサイズの調整や裾上げをしてもらう時間がなかったため、スカートを選んだのだが、それだけではとても冷気に耐えられないので、厚手のタイツも履いている。上から順に、オフ・ホワイト、ダーク・グレー、ブラックといったモノトーンで統一されているが、その分、チョーカーについた石の滴るような緑色が際立って涼やかだ、と評したのは透である。利玖は単に、温かい服というのは大体こういう色をしているものだ、という経験則に従って選んだだけであった。
料理も飲みものも、安斎七生が作って運んできた。メイン・ディッシュはハンバーグで、スープやサラダ、前菜、果物のコンポートを使ったデザートもついた。どれも絶品で、利玖も透も、ほとんど会話をせずに夢中で食べた。
七生は、食事を運んだ後、スタッフ・ルームに戻ろうとしたのだが、透がそれを引き止めた。他に泊まっている客もなく、同じ県内に暮らしている、年齢も大体同じ女性同士である。今後のために色々と情報交換をしよう、とまるで親戚に甘えるように透が積極的に誘った。
七生は頑として首を縦にふらなかったが、途中から、利玖もその誘いに同調すると、スタッフ・ルームから自分の食事が乗ったプレートを持ってきてテーブルについた。利玖達と同じメニューではなく、リゾットとサラダだけという少なめの食事だった。
七生が加わった時には利玖と透はほとんど食事を終えていた事もあって、会話が弾み、そのうちに、利玖達が何のために杏嶌町へ来たのか、という話題になった。
「それはぁ……」透が横目で利玖を見る。食事の途中から飲んでいたワインが回ったのか、それとも、そういう演技をしているのか、微妙な表情だった。「お話ししても良いですか?」
「アドバイザとして、契約を交わして連れて来て頂いたのです」利玖は紅茶のカップを持ちながら言った。
「契約……、ですか?」七生が首をかしげる。
「はい」利玖は頷いた。「もうすぐ知人が誕生日を迎えるので、プレゼントを贈りたいと考えています。しかし、わたし一人では適切なものを選べるかどうか不安でした」
「それで、わたしの方からご提案したんですよ」透がワイン・グラスを揺らしながらにやっと笑う。「思い切って、杏嶌ショッピング・プラザで買うのはどうですか、って。ハイ・ブランドだけじゃなくて、色んな店が入っているから、選択肢が広がるでしょう? 顧問料と交通費をお支払い頂けるのであれば一日お役に立ちますよ、ってご提案したんですよ」
「顧問料って……」七生は眉をひそめて、透を軽く睨む。「駄目ですよ、こんなに若い方からふんだくったりしたら」
利玖にも容易に聞き取れるボリュームだった。ジョークだったようだ。
「いえ、正当な取引だと思います」利玖も笑いながら首をふった。「それに、ゴールデンウィークの間、泊まり込みでアルバイトをしていたので、懐には少し余裕があるんです」
そこまで言ったところで、利玖は大切な事を思い出し、カップを置いた。
「あの……、七生さん」彼女は姿勢を正し、それから頭を下げる。「いきなり矛盾するような事を言って、大変申し訳ないのですが、実は、七生さん達にお支払いするお金が、もう財布の中に残っていません。日帰りの予定だったので、二人分の宿泊費までは計算に入れていなかったのです。甘い見積もりでした。本当に申し訳ありません」
シャワーを浴びている時、ふいにその事に思い至ったのだ。
バスルームから出た後、すぐに端末を開き、プラム・ポマンダ・ホテルの料金表を調べようとしたのだが、なぜか公式の情報にはたどり着けなかった。それが、不安を増大させた一因でもある。
七生と透は顔を見合わせて、それからにっこりと笑った。
「大丈夫ですよ」七生が頷く。「すでに二名分の宿泊料金を、白津さんからお支払い頂いております」
「え!」利玖はびっくりして透の顔を見る。
「潟杜に帰れなくなり、現地で一泊しなければならないシチュエーションを想定しなかったのは、わたしの落ち度です」透は真面目な口調で言う。「ですから、こちらのホテルで生じた一切の費用は、わたしが負担します」
「でも……」利玖が食い下がろうとすると、透はワイン・グラスに口を近づけて苦笑した。
「正直なところ、そういう事にして頂いた方が、わたしにとってもありがたいのです。ワインを飲みながら申し上げたのでは、あまりにもあからさまですが……」
「佐倉川さん、もしかして、うちのホームページにアクセスして、料金を調べようしてくださったんじゃありませんか?」七生が質問する。
「はい」利玖は、言い当てられた事に驚きながら頷いた。「調べ方が下手だったのか、見つける事も出来なかったのですが……」
「佐倉川さんのせいではありません」七生が首をふる。「ないんですよ。そもそも、ホームページが……。今どき、それじゃあ、商売する気がないと思われても仕方がないですよね」
七生はため息をついて、まだ半分ほど残っているリゾットの皿に目を落とした。
「ここ、駅からも、国道からも離れていて、看板も出していないでしょう? 途中からは一車線の山道で、アクセスが良いとはとても言えないのですけれど、それでも足を運んでくださるのは、ほとんどが祖父母の代についてくださった馴染みのお客様なんです。昔を懐かしんで、はるばるこんな森の奥まで来てくださるのです。いつまでもそれに甘えてはいけないって、考えてはいるんですけれど……」
七生は、ふっと肩を落として微笑み、再びスプーンを持ってリゾットを食べ始めた。
プラム・ポマンダ・ホテルがあるのは、国内有数の高原リゾート・杏嶌町の郊外、北欧を思わせる深い緑の森の中である。県東部に位置する杏嶌町の中でも、特に東の県境に近く、峠を越えるとすぐに群馬県に入る。
この辺りには、ハイ・ブランドのショップや人気のレストラン、美術館などが軒を連ねる駅前の賑わいも、日本一の避暑地という言葉に惹かれて国内外から資産家が集まる別荘地のささやかな喧騒も届かない。おとぎ話の本の中に残された魔法使いの家のように、森の奥まった所に、ぽつんと佇んでいるのだ。
確かに、ふらっと立ち寄る事が出来るような場所ではないが、そうしてただ、霧と木々に飲み込まれるように、誰からも思い出されずに消えていくとは到底信じられない価値と魅力があるのだと、透が力を込めて語った。
「コッツウォルズ・ストーンで出来ているんですよ」二杯目のワインに口をつけながら、透が指をふって説明する。「コッツウォルズ・ストーンというのは、イングランド中央部の丘陵地帯で採れる石灰岩に、特別についた名称です。その一帯は、十四世紀頃の景観をそのまま残した村が点在していて、今では、それが観光資源として活用されています」
利玖は頷き、紅茶を飲む。岐阜の白川郷みたいな場所だろうか、と考えた。
「同じ石材を使うだけではなく、加工の仕方や積み方も、あちらの古民家を忠実に模しています。本当に、こんな建物は二つと国内に存在しませんよ。なにしろ、コッツウォルズ・ストーン自体が非常に高級なのです。花壇や、ちょっとした玄関先の飾りに使うのならまだしも、これほど本格的なホテルの外壁に用いるというのは……」
透はそこで話すのをやめ、ゆっくりと首をふってワインを口に含んだ。
「三号室の内装も、今まで泊まった事のあるどんなホテルとも違っていて、見とれてしまいました」利玖は、七生に向かってそう言った後、そっと指先をテーブルに置く。「こういった家具の一つ一つにも、年月を経た厚みというのか、異国情緒だけではない、様々な思いが込められているように感じます。もしかして、これらもすべて、英国で作られたものですか?」
「はい。ほとんどのものが、そうです」七生が頷いた。「祖父は元々、貿易関係の仕事をしていました。アンティークのバイヤと知り合い、彼らが扱う品々について学ぶうちに、いつしか英国そのものに魅せられてしまったそうです。公務員だった父……、つまり、わたしの曾祖父が遺した遺産も、少し使う決心をして、四十代半ばで会社を辞め、細部までこだわったプラム・ポマンダ・ホテルを完成させ、移り住んだそうです」
「お住まいは、こちらの近くですか?」
利玖が訊ねると、七生は首を横にふった。
「ホテルの一部が自宅を兼ねています」
「なるほど……」利玖は頷く。「ずっと、お二人で切り盛りされているのですか?」
「どちらかが、例えば怪我や病気で働けなくなった時や、たくさんのご予約を頂いてどうしても人手が足りない時には、アルバイトを雇うつもりですが、今のところ、そういった事は起きていませんね」
七生は、ココアが入ったマグカップを手に取って、寂しそうに微笑んだ。
「なぜか、頑健なんですよ。祖父も……、わたしも」
「わたしもだよ」透が唐突にそう言って、片手を前に突き出した。「今回だって、絶対に風邪なんか引きませんから」
七生は驚いたように顔を上げ、少しの間、無防備な表情で透を見ていたが、やがて小さく吹き出した。
「じゃあ、もうお酒を飲むのはやめにして、ベッドに入らないと」
「それは嫌だ」透は首をふる。「ここに来て、七生ちゃんのカクテルを飲まずに帰るなんてあり得ない」
「もう、まったく……」
七生はくすくすと笑い、それから天井を見て、何か綺麗なものを思い浮かべるように目を細めた。
「杏嶌ショッピング・プラザかぁ。わたしも行ってみたいな。最近、外国の食器メーカが出店したんですよ。良いカクテル・グラスが買えるかも」
「ほらぁ、もう」透が利玖に顔を寄せて、しかめっ面を作る。しかし、どこか、楽しんでいる風でもあった。「この若さで、仕事一辺倒なんですよ、この子。心配だわぁ……」
「ご心配には及びません」
七生がテーブルの上に身を乗り出して言い返した時、どこかでドアが開くような音がした。
利玖は、咄嗟に背後を振り返る。ホテルの入り口側を向いて座っていたのだが、そちらから誰かが入ってきたような気配はなかった。
カウンタから、レストランを挟んで、反対側にも通路が伸びている。
そちらに注意を向けていると、衣服を叩くような、ばさばさという音、いくつもの荷物を下ろすような音に続いて、ロビィの明かりの下に一人の老人が現れた。テーブルを囲んでいる利玖達に気づいて、目を丸くして立ち止まる。
「や、これは……」
七生よりも身長が少し低いが、しゃっきりと背筋が延びており、白い髭と髪はどちらも短く刈り込まれて、職人を思わせる鋭い印象だった。作業着らしいラフな格好で、額や手首に少しだけ水滴がついている。
七生が立ち上がり、その老人に向かって片手を伸ばした。
「祖父の頼造です」
老人は、小さく頷き、利玖達に向かって頭を下げた。
「オーナを務めております、安斎頼造と申します。本日は、大変なお天気の中、ようこそお越しくださいました。本格的な嵐になる前に、庭の草木の養生を済ませようとあちこち歩きまわっておりましたら、あっという間に時間が経ってしまって、いや、ご挨拶が遅くなって申し訳ない」
「おじいちゃん、どうもね」透が手をふる。「ずっと庭にいたの? 真っ暗で大変だったでしょうに」
「ああ……」頼造は口ごもり、横目で透を見た。「森の方に、ちっとばかし難しい箇所があってな」
透の顔から笑みが消えた。
残っていたワインを飲み干し、しなやかな動作で立ち上がる。七生に向かって片手を上げ、
「ごめん、ちょっと出てくる」
と断りを入れると、歩き出しながら利玖の方を振り返って微笑んだ。
「お気になさらず……。野暮用を済ませてくるだけです。利玖さんは、引き続きごゆっくりなさっていてください」
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