プラム・ポマンダ・ホテル The lights are on.
梅室しば
第1話
膨らみすぎた鉛色の雲が稜線でショートを起こしたような白い光が迸り、次の瞬間、轟音とともに大地が震えた。
「ひえっ」
「さっきよりも近いようですね」
日没まで、まだ二時間ほどあるものの、本格的な吹き降りのために太陽の位置はわからない。
密閉された車内に雨音が響く。
くり返し、それらが増幅するエネルギィで、肌がわずかに痺れるような感じだった。
利玖は体を後ろに引き、助手席側の窓から外を眺める。そちらは、フロントよりも雨の当たる量が少なく、車が横付けしているホテルの名前が刻まれたプレートを読む事が出来た。
──プラム・ポマンダ・ホテル。
「ポマンダ?」利玖は唯一耳慣れない、その単語を読み上げる。
運転席で、透が人さし指と親指で、ちょうど釘くらいの大きさを示すジェスチャをした。
「このくらいの、クローブと呼ばれる香辛料と果物を使って作るオーナメントです。杭に近い形状をしているクローブを満遍なく果物に挿して、その後、粉状のスパイスをまぶして乾燥させます。上手く水分が抜けると、スパイスの抗菌作用も相まって、かなり長持ちさせられるんですよ。リボンなどを巻いて、魔除けや幸運のお守りとして飾る地域もあるようですね」
「プラムは汁気が多いから、難しそうですね」
「そうですね」透は頷く。「プラム・ポマンダというのは、創業者の言葉遊びかもしれません。ここでも、実際に作る時にはオレンジやリンゴを使います」
「わたしも作ってみたいなあ……」利玖は窓に顔を近づけて呟いた。
「湿度が高いと上手くいきません」透は苦笑する。「秋になるまで待った方が良いですよ」
透は上体をひねり、後部座席の買い物袋をまとめて掴むと、利玖の方へ差し出した。
「雨がひどくならないうちに、どうぞ中へ……。わたしは駐車場に車を置いてきます」
「すみません、わたしだけ、先に……」利玖は、買い物袋を受け取りながら頭を下げる。
「なんの、なんの。わざわざ濡れ鼠を増やす必要もないでしょう」透はからっとした笑顔で片手をふった。「もう少しの辛抱ですよ。熱いシャワーと柔らかいベッド、それに美味しい夕食が待っています」
利玖は自分のバッグと買い物袋を抱えて車を出ると、素早くホテルの軒先に飛び込んだ。雨に当たったのは一瞬だったが、風向きのためか、前髪や頬、襟元に容赦なく冷たい飛沫が吹き付けた。
車のテール・ランプが遠ざかっていくのを見送ってから、利玖はホテルの入り口に目を向ける。
ヴィクトリア朝の警官のような黒いシェードを被ったランプが、滲むような橙色の光で木製のドアを照らしていた。ミニチュアのライオンの頭部が、鉄の輪を咥えて中央上部で牙を剥き出しにしている。利玖の頭頂部よりも少し高い位置だった。しかし、こんな事は日常茶飯事である。彼女の身長は百五十センチメートルに届かない。
手を伸ばし、輪を掴んで金属のプレートを二、三度打つ。急かすような調子で打ったつもりはまったくなかったのだが、転がるような足音が急接近してきて、勢いよくドアが開いた。
「すみません!」セミロングの黒髪を一つに結った若い女性が、何度も頭を下げながら利玖の方へ手を伸ばした。握手を求められている訳ではない。両手である。「お車までお迎えに上がろうと思っていたのですが……」
荷物を持ってくれるのか、と利玖はようやく気がついた。
「気になさらないでください」利玖は首をふって、濡れたバッグやら買い物袋やらを女性に差し出した。「この雨では、エンジン音もまったく聞こえなかったでしょう」
女性が、ふんわりと膨らんだタオルを渡してくれたので、それを顔に当てながらホテルの中へ入る。ロビィに続く通路には絵画や花が飾られて、ちょっとしたギャラリィのようになっていた。
そこを抜け、左手に見えるカウンタの端がフロントとして使われていた。
利玖は、そこで改めて自己紹介をし、荷物を運んでくれた女性──
七生の背後の壁に、従業員のネーム・プレートが挿し込まれたボードが掛かっていて、確かにそこには彼女の名前の他にもう一つ、「
髪や顔を拭き終えて、利玖が宿泊カードを書いていると、入り口のドアが開く音がした。
「七生ちゃぁん……」助けを求めるような透の声がする。「ごめん、タオル持ってきてもらえる? もう、眼鏡までびしょ濡れで……」
慌てて七生が、足元のバスケットごとタオルを持ってカウンタを飛び出していった。
少しの間、壁越しの小さな話し声、笑い声がした後、透と七生は並んでロビィに入ってきた。透は、綺麗になった眼鏡をかけ、今は髪を拭いている。
「いやあ、濡れましたね」透が歯を見せて言った。
「わたしはほとんど……」利玖は首を横にふる。「あの、白津さん、大丈夫ですか? 早くシャワーを浴びられた方が良いのでは?」
明るいロビィで見ると、比喩表現ではなく、透が頭のてっぺんから爪先までずぶ濡れになっているのがはっきりとわかった。七生が持っているバスケットには、水を吸ってしぼんだタオルが何枚も投げ込まれている。全身から、水が滴り落ちるような状態で、そのままでは中へ入ってこられなかったのだろう。
「いえ、このくらいは──」透は口を開いたが、ふいに真後ろを向くと、立て続けに二回くしゃみをした。
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