デビルズ・デリバティブ ~悪魔の派生商品~

小澤文庫

第0話 プロローグ 悪魔の派生商品

 アスファルトの黒い水面に、刺々しいネオンがちぎれて揺れた。重い足取りが止まる。遠くを見る目の奥で、男は祈ろうとした。だが、言葉は喉の奥で砕け散り、砂のように崩れ落ちていく。雨はそれさえも洗い流していった。


 大切な人を失った夜。

 泥沼の不倫と離婚劇。仕事や事業の失敗、財産の破綻。

 不摂生が呼んだ突然の大病。一瞬の迷いで越えてしまった一線。

 注意していたら防げたはずの、取り返しのつかない事故――。


 順風満帆な人にも、つつましく平和に暮らしていた人にも、奈落の入口はある日ふいに足元へ迫る。そのとき、背後で声がした。


「あの頃に戻れますよ」

 傘も差さずに立つ男が、濡れた靴のつま先で水たまりを割る。


「戻りたい時のあなたに戻って、今を変えられるチャンスです」

「なあに、ちょっとした“取引”ですよ」

「さあ、やり直しませんか。やり直しますよねぇ?」

 

 喉が、砂を呑み込むように鳴る。

 ——幻聴だ。そう思いたいのに、雨音よりもはっきり届く。

 

 男は軽く会釈した。

「昔の悪魔は“寿命を全部いただきます”なんて旧態依然的なことを言ったようですが、今の悪魔はそんな商売はしません。競争が激しくてね」

 濡れた上着の内ポケットから、黒いネックストラップを引っ張り出してネームカードを差し出す。


「弊社はデビルズ・デリバティブ・カンパニー。寿命派生商品の会社です。日本担当の営業、阿久真(あく まこと)と申します。源氏名ですが、覚えなくて大丈夫」

 二人の男の隣を、一組のカップルが通り過ぎていく。女性は阿久の至近距離を、歩みの速さを落とすことなく通り過ぎた。


「……見えて、るのか。俺にだけ?」

「ええ。他の方には姿も声も届きません。いまのあなたは、傍目には“ひとり言をつぶやく人”に見えるでしょう」阿久真は、笑うでもなく口角だけを動かす。


「それと、私が消えたらこの記憶は消えます。“家に帰って一度考えてみる”という社交辞令は無意味です。ご了承を」


 胸の内側にすっと冷たい風が入る。

「取引って、お金....ですよね」

「対価はあなたの寿命の半分。この契約が成立した“今”から亡くなるまでの残りの、ちょうど半分だけで結構」


 阿久真は 人差し指を上に向け、男の目線を上げさせる。

「例を出しましょう。あなたが三十五歳で、本来はあと五十年生きるなら、二十五年を手数料としていただく。余命一年の告知を受けている方なら、だいたい半年。医師の宣告より私どもの見立てのほうが正確ですが、いま何年残るかは教えられません。規約です」


「……戻れるのは、本当に“あの日、あの場所”なんだな」

「ええ。正確には戻りたい日の三日前にあなたは戻っています。前回は取らなかった行動を選んで、人生は変わる。月日が流れ、また“今日”が来る。そのとき私は再び現れ、あなたの残りの余命を告知します。そこで自動的に半分が引き落とされます」


 雨の匂いが濃くなる。

 阿久真は、名札カードを裏返した。そこには小さく、三つの箇条書き。

「ここが大切なので、“道具”でお見せします。契約事項の義務説明、三点です」


 『戻った瞬間から七十二時間、本契約の記憶が残る』

 『再訪(今日と同じ日)に契約内容と余命を告知。告知後も七十二時間だけ記憶が残る』

 『自分以外の寿命は変わらない(亡くなり方や場所は変わり得る)』


「以前は二十四時間だったんですが、“短すぎる”と委員会で揉めましてね。今は三倍のお得期間。じっくり考え、メモを残せます」


「メモ……残せるなら、忘れても――」

「注意点がもう一つ。契約に関わる情報は七十二時間後に“きれいさっぱり”消却されます。あなたの脳内の記憶だけでなく、メモやデジタル記録も含めて」


  提示したカードに小さな注意書きが浮かび上がる。

「つまり、“悪魔”、“契約”、 “寿命”といった本質に関わるキーワードは読めなくなる。それ以外――たとえば “これからあなたがどう行動するべきか”のメモ書きはちゃんと残ります。いわゆるToDoですかね」

「……じゃあ、誰かを助けるための注意喚起は?例えば、危険な予定を変えさせるとか」

「他人の寿命は変わりません」 阿久真は、濡れた前髪を指で払う。

「行動や計画を変えるよう促しても、寿命という“枠”自体は動かない。救いたいなら、枠の内側で手段を変えることです」


 雨脚が、ひときわ強くなる。

 ——三日。書くしかない。忘れる前に。


 阿久真は、ネームカードをしまいながら続けた。

「再訪の“今日”が来たら、私は契約の事実と余命を告げます。その瞬間、残寿命の半分が自動的に引き落とされます。そしてそこからの七十二時間、あなたはそれを覚えている。七十二時間後には、悪魔との契約をすっかり忘れる。多くの方がまたメモを書きます。ご心中は察しますが、契約に触れる部分は消えます。あなたが今後行いたいメモは残ります」

「……もし、誰かに話したら?」

「そこで二つ、罠ではなく“安全装置”」指が二本、軽く振られる。


 ひとつ、

 過去へ戻った後の七十二時間。 契約を他人へ話すと、あなたは即座に“今日の今”へ引き戻され、契約は無効となる。奈落の入口も、再びあなたの足もとへ。


 そして、もうひとつ

 再訪後の七十二時間。契約を他人へ話すと、やはり“今日の今”へ戻る。契約の記憶は消えている。ただし――すでに引き落とされた寿命は、決して戻りません。引き落とされた事実を忘れていても、です。

 

 沈黙。雨音だけが、言葉の隙間を満たす。


「どうです」 判断しかねてる男に対して 阿久真は、細く笑む。

「やり直しませんか」


 指先が震える。——もし、あのときに間に合っていたら。三日間。三日でいい。書く。選ぶ。変える。


「……もし俺が『はい』と言ったら」

「では、ここに」

 男は空中に差し出すように手を向けた。濡れた闇の中、見えない紙が一枚、確かにある気配がした。


 ――雨は、やまない。

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