第08話 名前を呼ばれるということ――存在が、輪郭を持つ瞬間
第9話 名前を呼ばれるということ――存在が、輪郭を持つ瞬間
翌朝、世界は昨日よりもさらに解像度を失っていた。
空は濁った灰色に沈み、遠景は水彩画が雨に滲んだように曖昧だ。
輪郭というものが、最初から存在しなかったかのように。
そして何より――先頭を歩くガイドちゃんの様子が、
明らかにおかしかった。
歩調は目に見えて遅く、何度も立ち止まっては空を仰ぐ。
天球の配置を確認するその仕草は、
かつての絶対的な確信に満ちたものではない。
彼女の「勘」が、砂時計の砂のように、確実に零れ落ちている。
「……おい。無理するな。少し休むか?」
背後から声をかけると、彼女は力なく首を振った。
「無理じゃない……ただ、景色が変わる速さに、
私の頭が追いついてないだけ。慣れてないだけだから」
「慣れる、か」
低く唸るように、マサトが言った。
「本来、君はこの世界の理そのものだったはずだ。
それが『慣れ』を必要とする時点で、
君はこの世界の異物になりつつある。
論理的に言えば、最悪の兆候だな」
道が不自然に三叉路へと分かれた場所で、彼女は足を止めた。
杖を握る指が、わずかに震えている。
「……右」一拍の沈黙。
「……たぶん、右だと思う」
その「たぶん」という曖昧さは、この世界では致命的な毒だ。
進んだ先に広がっていたのは、
それまでの無機質な荒野とは明らかに異なる場所だった。
立ち並ぶ廃屋。崩れた外壁には、
無数の文字――いや、刻印がびっしりと刻まれている。
「……ねえ、これ。何て書いてあるの?」
ユリナが怯えた声で壁を指差す。
ガイドちゃんは一瞥しただけで、すぐに視線を逸らした。
「……見たことない。知らない文字よ」
嘘だ。彼女の瞳が一瞬、
泳いだのを俺は見逃さなかった。
それはドリームランドの古層で使われる、呪術的な刻印――
背筋に、氷の粒が走る。
「……これ、人の名前じゃない?」
カオリが指先で壁をなぞった、その瞬間。
屋根の上を、黒い猫の影が音もなく横切った。
「ここよ」ガイドちゃんが、絞り出すような声で言う。
「名前が、残る場所。……ドリームランドで、
自分を繋ぎ止められなかった人たちの、終着駅」
「名前が……残る?」
「ドリームランドはね、名前を失うことで、
『概念』として生き延びられる世界なの。私みたいに」
彼女は、壁に刻まれた無数の死名から目を逸らさない。
「でも……名に縛られ、名を残してしまうと、
その存在は完全に固定される。
帰る場所を失って、永遠にこの風景の一部になるの」
胸を、直接掴まれたような感覚がした。
彼女がガイドでいられた理由が、ようやく繋がる。
名前を捨て、誰にも呼ばせず、
徹底した孤独を選び続けたからこそ――。
「……なあ」
俺は意を決し、彼女の隣に踏み込んだ。
「お前の、本当の名前。
……もし、誰かに呼ばれたら、どうなる?」
長い沈黙。
彼女は視線を落とし、杖で砂を無意味にいじる。
「……たぶん。完全に、ここに属することになる。
消えるよりはマシかもしれないけど……
もう二度と、現実の光は見られない」
彼女は笑った。
いつもの、軽い仮面の笑顔で。
そのときだった。
『――呼んだな』
地を這うような低い声。
全員が息を呑み、振り返る。
廃屋の影に、一匹の白い猫が座っていた。
裁定猫ではない。
もっと原始的で、神性を帯びた冷たい眼差し。
「呼んだはずだ」猫は淡々と告げる。
「汝は、名を呼んだ」
「……誰がだ!
俺たちは、まだ彼女の名前を知らない!」
叫ぶ俺に、猫は瑠璃色の瞳を向けた。
「汝だ。声にせずとも、心で呼んだ。記号ではなく、
一人の女として、固有の存在として定義した。
この世界では、それを『呼名』と呼ぶ」
ガイドちゃんが後ずさる。
「……だめ。まだ、だめ……!」
彼女の足元に、淡い光の文字が浮かび上がる。
未完成だが、それは確実に『彼女の真名』へと収束し始めていた。
「……始まったわ」彼女が膝をつき、荒く息を吐く。
「名前は、一度呼ばれ始めたら止まらない。
誰かが私を認識し続ける限り、輪郭は固まっていく……」
「だったら、俺がその認識を――!」
「違う!」
鋭い叫びが俺を遮った。
「名前は、守ってもらうものじゃない!
……選ぶものなの!」
猫が、消え入りそうな声で付け加える。
「完全な名が呼ばれ、輪郭が定まるとき。
汝は現実への帰路を永久に失う。……だが」
猫は、わずかに目を細めた。
「誰かに選ばれた『唯一の存在』として、
この世界に残ることもできる。
それが祝福か、呪いかは……知れぬがな」
猫は霧のように消え、地面の光もゆっくりと薄れた。
「……ごめん」
ガイドちゃんが、肩を上下させながら言う。
「私、そろそろ隠しきれなくなる」
「だったら最後まで付き合う。
お前が何者になっても、俺がその名前を背負う」
彼女は少し呆れたように、そして愛おしそうに笑った。
「……ほんと、救いようのない最低な人」
「知ってる。最高の褒め言葉だ」
「でも……もし、
私の本当の名前を呼ぶなら、覚悟して」
真っ直ぐな視線。
「それは、告白よりもずっと残酷で、ずっと重いことだから」
理解した。彼女の名を呼ぶということは、
彼女をこの世界に繋ぎ止め、
俺のエゴで運命を確定させるという『罪』だ。
それでも、俺の手は止まらない。
この悪夢の終わりに――
彼女の名前を、世界で一番優しく呼ぶために。
▶第09話へ続く
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