バニー(妄想)
@SUSPECT
第1話
シャンデリアの光が、何百もの宝石を砕いて撒き散らしたかのように降り注いでいる。
紫煙と高価な香水が混じり合った甘ったるい空気。チップがぶつかり合う乾いた音。ルーレットが回る微かな摩擦音に、一喜一憂する人々の熱気。
ここは欲望が渦巻く海底神殿――超一流会員制カジノ『ル・ミラージュ』。
そのフロアの片隅で、三上璃都はカクテルグラスを指先で弄びながら、小さく溜息をついた。
(……帰りたい)
心の中でだけ、愚痴をこぼす。
今日の璃都の装いは、普段の動きやすい服装とはかけ離れたものだった。背中が大きく開いたダークブラウンのイブニングドレス。足元は慣れないピンヒール。髪もセットされ、化粧も施されている。鏡に映った自分はまるで別人のようで、正直なところ居心地が悪いことこの上ない。
今回の「Ebony Talons」の任務は、このカジノのオーナーが不正に蓄えた顧客データの奪取。
ボスは裏方でのハッキング担当、璃都は客として潜入し、物理的なアクセスポイントへの接触を行う実行部隊だ。
本来なら頼れる先輩たちがそばにいるはずだが、今回はセキュリティの都合上、フロアにいるのは璃都一人だけ。
璃都は頭を振って雑念を追い払うと、鋭い視線をフロアへと走らせた。
ターゲットの部屋へ続く動線を確認する。警備員の配置、監視カメラの死角、そして給仕たちの動き。
――ん?
視界の端に、違和感が引っかかった。
カジノのフロアには、客に酒や軽食を振る舞うバニーガールたちが多数行き交っている。露出度の高いレオタードに網タイツ、頭にはウサギの耳。男たちの視線を一身に集める華やかな存在だ。
だが、璃都が目を留めた「それ」は、明らかに異質だった。
すらりと伸びた手足。引き締まった腰つき。
着用しているのは、身体のラインを強調する黒いベストに、空色のネクタイ。ボトムスはタイトなスラックスだが、腰には可愛らしい丸い尻尾がついている。そして頭には、紛れもなく黒いウサギの耳。
バニーガールではない。
バニー、ボーイ?
「……は?」
思わず素っ頓狂な声が漏れそうになり、慌ててグラスで口元を隠す。
最近はこの手の趣向も流行っているのだろうか。いや、それにしても完成度が高すぎる。
遠目に見ても分かる、その立ち居振る舞いの洗練され具合。トレイを持つ指先の角度一つとっても、まるで一流の執事のように無駄がない。それなのに、漂う空気はどこか退廃的で、艶めかしい。
客のオーダーを聞くために彼が屈んだ瞬間、背中のラインが露わになり、周囲の女性(と、一部の男性客)から熱っぽい吐息が漏れるのがわかった。
嫌な予感がした。
背筋を冷たいものが駆け上がるような、それでいて心臓が早鐘を打つような、この感覚。
璃都はその「バニーボーイ」を目で追った。
彼は優雅に客へのサーブを終えると、ふと顔を上げ――そして、まるで待ち構えていたかのように、璃都の方へと視線を流した。
目が、合った。
切れ長の、全てを見透かすような瞳。
整いすぎているがゆえに冷たさすら感じる美貌。
口元に浮かべた、人を食ったような薄い笑み。
(う、そ……)
グラスを持つ璃都の手が震える。
見間違うはずがない。
あの屋敷で、何度も何度もその背中を見た。
皮肉を言われ、命令され、そして守られた。
濃幽、知音。
いや、あれは――。
璃都の脳裏に、雪の日の記憶がフラッシュバックする。倒れていた自分を助けてくれた、天使のように美しかった少女。京極綾奈。
あの少女の面影と、目の前の青年の姿が、パズルのピースのようにカチリと嵌まる。
男装の麗人。性別すらも武器にする、美しき猛獣。
(なんで!?なんでここに!?ていうか、な、なななななんすかその格好ーーーーッ!!?)
璃都の内心の絶叫など露知らず、その「ウサギ」は優雅な足取りで、一直線に璃都のもとへと歩いてくるではないか。
逃げたい。でも足が動かない。
彼は璃都のテーブルの前に立つと、恭しく一礼した。長い睫毛が影を落とす。
「お一人ですか、マドモアゼル」
声。
少し低く作っているけれど、耳の奥が痺れるような艶のある響き。
間違いなく、彼(彼女)だ。
「……あ、えと」
璃都は必死に表情を取り繕おうとするが、頬が熱くてたまらない。
だって、似合いすぎているのだ。
カチリとしたベストに包まれた上半身のラインも、スラックスも、あざといとすら思えるウサギの耳も。
何より、その表情が楽しんでいるように見えるのが恐ろしい。
「ご注文はいかがなさいますか? 当店のカクテルは絶品ですよ」
彼はメニューを差し出しながら、誰にも聞こえないような微かな声量で、こう付け加えた。
「――随分と可愛らしい格好をしてるじゃないか、リトちゃん」
ドクン、と心臓が跳ねた。
やっぱりバレている。
璃都は引きつった笑みを浮かべ、メニューを受け取るふりをして顔を近づけた。
「あや……トモちゃ、ん……っす、よね?」
「人違いじゃないかな。私はしがない給仕だよ」
「嘘つかないでくださいよ!その顔、その声、忘れるわけないじゃないですか!」
「声が大きいよ」
彼は――濃幽(仮)は、唇に人差し指を当ててウインクしてみせた。その仕草の破壊力に、璃都は危うく卒倒しかける。
「な、なんでこんなところに……しかも、そんな格好で……」
「潜入調査だよ。君たちと同じさ」
さらりと言ってのける。
「とある有力者がこのカジノで妙な動きをしているらしくてね。獅子堂は京極家の護衛として顔が割れているし、潜り込むには私が適任だったというわけだ」
「だからって、バニーボーイになる必要あります!?」
「何事も経験だよ。それに、こういう制服も悪くないだろう?」
彼は自分の腰についた尻尾を指先で弾いてみせた。
「……似合ってます。悔しいくらいに」
「素直でよろしい」
彼はクスクスと笑い、手際よく新しいグラスに水を注いだ。その所作一つ一つに見惚れてしまう自分が悔しい。
それにしても、と璃都は思う。
――京極綾奈は、本当に何者にもなれるのだ。
屋敷では冷徹な護衛を演じ、今は蠱惑的な給仕を演じている。
けれど、その根底にある高貴さだけは隠せていない。
それが、璃都にはたまらなく愛おしく、同時に少しだけ切なかった。彼が遠い世界の人であることを突きつけられているようで。
「……で、君の任務は順調なのかい?」
水を置くついでに、彼は囁いた。
仕事モードの声だ。璃都も居住まいを正す。
「あー……今のところは。でも、ターゲットがなかなか席を立たなくて」
「奥のVIPルームにいる、太った男だね? 彼ならあと十分もすれば席を立つよ」
「え?」
「さっき酒に少し細工をしておいた。お腹が緩くなる程度にね」
さらりと恐ろしいことを言う。
「そうすればトイレに立つ。警備が手薄になる隙ができる。……君なら、その数分で充分だろう?」
「……まさか、私のために?」
璃都が目を丸くすると、彼はふいと視線を逸らした。
「偶然だよ。あの男、給仕に対する態度が悪かったから少しお灸を据えてやっただけさ」
嘘だ。
この人は、いつだってそうだ。
自分がやったことを恩着せがましく言うこともなく、ただ結果だけを置いていく。
璃都の胸の奥が、ぎゅっと熱くなる。
右腕にはめている銀のバングル――幼い頃に貰い、再会してからも肌身離さず持っている宝物――が、ドレスの下で熱を持っているような錯覚を覚えた。
「ありがとうございます、トモちゃん」
「……仕事に戻るよ。あまりジロジロ見るな、やりにくい」
彼はトレイを小脇に抱え、踵を返そうとする。
だがその時、近くのテーブルで騒ぎが起きた。
「おい! なんだこの酒は!」
酔っぱらった客が、通りがかったバニーガールに絡み始めたのだ。グラスを床に叩きつけ、怯える彼女の手首を掴んでいる。
「俺がどれだけ負けてると思ってんだ! サービスくらいしろ!」
典型的な八つ当たりだ。周囲の客が眉をひそめるが、関わり合いになるのを恐れて誰も動こうとしない。
璃都が腰を浮かせかけた、その時。
黒い影が、音もなく客の背後に滑り込んだ。
「お客様」
鈴を転がすような、しかし絶対零度の声。
濃幽だった。
彼は暴れる客の手首を――まるで羽毛でも扱うかのように優しく、しかし有無を言わせぬ力で――掴み、バニーガールから引き剥がした。
「い、痛ぇ! なんだ貴様!」
「当店の大切な従業員に傷がつきます。……それに、ツキに見放されたからといって女性に当たるのは、紳士の振る舞いとは言えませんね」
にっこりと。
彼は完璧な営業スマイルを浮かべていた。
だが、その瞳は笑っていない。その場にいる全員が凍りつくような、圧倒的な殺気と品格がそこにはあった。
ただの給仕ではない。
数多の修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ、王者の風格。
「ひっ……」
客は毒気を抜かれたように腰を抜かし、警備員たちによって連れ出されていった。
一瞬の静寂の後、フロアには安堵の空気が戻る。
濃幽は助けたバニーガールに優しく声をかけ、何事もなかったかのように業務に戻った。
その背中が、璃都の方を一瞬だけ向き、小さく「行ってこい」と合図を送るのが見えた。
ターゲットの男が、騒ぎに乗じて席を立ったのが見える。
チャンスだ。
(……ほんと、敵わないっすよ)
璃都は残りのカクテルを煽り、席を立った。
ピンヒールの音を響かせながら、ターゲットの後を追う。
すれ違いざま、彼の横を通る。
視線は合わせない。言葉も交わさない。
けれど、すれ違う瞬間に、微かな風に乗って彼の声が聞こえた気がした。
『気をつけて。――死ぬんじゃないわよ』
その口調は、あの屋敷で聞いた「彼女」のものだった。
璃都の口元に、自然と笑みがこぼれる。
ああ、大丈夫だ。
たとえ彼がウサギの耳をつけていようと、事実は変わらない。
「了解っす、お嬢様」
小さく呟き、璃都は闇の中へと足を踏み入れた。
心なしか、足取りは来る時よりもずっと軽かった。
次に会ったときは、絶対にあのバニー姿の写真を撮ってやる。そんな野望を密かに抱きながら、怪盗は今宵の獲物へと爪を立てるのだった。
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