第二章 演劇集団クワガタは舞台作りに入る
年が明けて、稽古場の空気は少し引き締まった。
新入生歓迎公演まで、あと四ヶ月。
長いようで、実際はあっという間に過ぎていく。
配役が決まったことで、稽古場の空気は本番の匂いを帯び始めていた。
紗奈は暁子としての台詞を、台本の端が柔らかくなるほど読み込んでいた。
千秋は伊余子の台詞を覚えながら、紗奈の肩を揉んでやり、「ほら、あんたは金星人なんやから、もっと胸張り」と叱咤激励する。
日高は重一郎の台詞を、鏡の前で淡々と繰り返し、宇宙人だと人々に伝えるための奇怪なポーズをいくつも生み出していた。
鏡越しに見ると、彼の表情はいつも少し硬い。繊細な部分を持ち、繰り返し身体に覚え込ませるのが、彼のやり方だった。役に入ると、彼は周囲の音が聞こえなくなるらしい。
御所ランニングは相変わらず続き、冬の朝の冷たい空気の中を走ると、吐く息が白く手がかじかんだ。
紗奈は細い体で必死に走り、千秋は横を悠々と走りながら「ほら紗奈、あと半周やで!」と檄を飛ばし、僕は照明のことを考えながら走っていた。
UFOセットは、年明けから本格的に動かし始めた。
動かすたびにギシギシと音がする。黒川舞台監督が「これ、本番までに直しといてや」と眉をひそめるが、「え。それはそれで音が混ざってもええんちゃいます? そこには音響の圧が入るから気にせんでも大丈夫やと思います」と僕は返した。
エンディングには轟音のUFOの飛び去る音が入る。多少の軋みは、むしろ本物っぽさになる、と食いつき、照明チームと舞台監督、舞台美術チームで何度も修正を重ねた。
図面と現場を往復し、半円のUFOは少しずつ形になっていった。
そんななかで、紗奈も変わり始めていた。
暁子の台詞を読むとき、彼女の声は以前より深く、遠くへ伸びるようになった。
──そして、あの事件が起きる。
••✼••
年末の打ち上げ兼、来年の決起会。
鍋を囲み、酒を飲み、一回生もようやく劇団に馴染んできた頃。
音響の
「おまえなあ、バトンに触るな言うたろうが」
「しかしバトンって、渡すもんじゃ、と思ったんすよ」
「触るな言うたら、まずは聞け? 三回目言わしたら放り出すぞ」
「すんませーん」
ヘラヘラと笑うから、僕は横から口を挟んだ。
「こいつ頭んなか音楽だけやから、またやるんちゃいます?」
「え、おまいう?」
「だから僕が見張っときます!」
「おお!任せた!」
懲りずにやってしまうんだろうと、僕はサワーを舐めながら思った。
豪快に二回生の千秋がジョッキを飲み干し、「歌いまーす!」ハルノヒを歌い踊り、半分くらい服を脱ぎかけ皆に止められ、さらに呑んでいる。
すでに出来上がっているが、顔色ひとつかえず、酒に強いから、誰も呑むのを止めない。
その横で、頬の赤らんだ紗奈がふとこぼした。
「そういえば……千秋さん、わたしね、生理止まってて」
美術さんをひとり挟んだところに座っていた僕はギョッとした。
千秋は、当然のことながら、その繊細さを一切理解しなかった。
「なんで? 彼氏にコンドームつけてもらわんかったん!?」
紗奈の目が丸くなる。
「え!?」
(いやいやいや……相談する相手間違えとるやろ)と心の中で頭を抱えた。
千秋はさらに声を張り上げた。
「ちょっと、日高ぁ!? ここ来なさい!」
桟敷席の奥から、のんきな声が返ってくる。
「どうしたどうした」
父親役の日高アレクセイ仁が顔を向けた。
ロシア人クオーターで背が高く、濃い顔立ちの日高は、座高も高いんです、という言葉通り頭ふたつぶん人より高い。
紗奈は顔を真っ赤にしながら、手をハタハタと振っている。
「いやいや……! なんでもないです! 最後のシーン! 上手くできなくて! どうしたらいいですかね?」
なんとか誤魔化した。
やれやれ。
僕は女優陣を見ながら、(……明日には全員知ってるやろな)と確信した。
••✼••
そして翌日。
案の定、劇団員全員が知っていた。
「紗奈、生理止まったらしいで」
「え、田中先輩と……?」
「いや、日高ちゃうん?」
「なんか処女懐胎とか……そういうやつやろ」
「美しい星やもんな」
紗奈は色白の整った顔を真っ赤にして、「ほんまに違います……!」と小さく言うが、誰も聞いていなかった。むしろ、顔を赤くしているのを眺めて楽しんでいる風だった。
僕は木に鋸を当てながら、(今年の春、絶対ろくなことにならん)と心の中でつぶやいた。
──そして、この芝居が、後にとんでもない方向へ転がっていくことを、このときの僕はまだ知らなかった。
••✼••
年始の神社参拝にも、紗奈は来た。
笑顔は少しぎこちなかったが、ゆっくりと長セリフのシーンが形になっていった。
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