第3話 梅

 日本に帰ってきて、一番手が震えたことは、旅行中電源をオフにしていたスマホを復活させることだった。

 だが、意外にも、着信やメッセージは何も入っていなかった。

 そのことに心底ほっとするのと同じくらい、帰りたくないと思った。


 それなのに、意思に反して、足は勝手に動いていた。まるで私の体は、自動的に、プログラムされているかのように。

 家の大きな門の前にたどり着く。そこで、やっと足が止まって、竦んでいた。

 目の前にあるのは、地獄の門にしか見えなかった。

 この門をくぐればあの日々は、色褪せて、時間を巻き戻したかのような、暗い世界が待ち構えている。恐怖が一気に襲ってくるが、私はぶんぶんと首を振って、振り払う。

 

 私は、世の中は、とてつもなく広いことを見た。自由とは、何かを知った。そして、この人と一緒ならば、私は変わることができると思える人と出会えた。ここに戻ってきたのは、家と母と決別するためだ。

 

 その葛藤は数秒間だったのに、門が開いて中年女性が飛び出してきた。

「紅羽さん! ずっと心配していたんですよ! よかった……」

 一年ほど前から、お手伝いに来てもらっている藤枝鏡花だった。

 門に設置されている防犯カメラの映像を見た誰かが、藤枝に知らせたのだろう。

「心配かけて、ごめんなさい」

「無事に帰ってきてくれたので、それだけで十分です」

 そんな優しい言葉を掛けてくれる人は、藤枝くらいだろう。古参な人々とは違って、異質で爽やかな香りがする。本当は聞きたくもなかったが、気掛かりが口につく。

「あの、母は……」

「はい、今いらっしゃいます」

 自分で聞いておきながら胃の中に鉛を入れられたように、ずっしりと重くなる。一年足らずですべて事情を把握し、私のことを案じてくれている藤枝は、私の肩に手を置いて安心させるようにいった。

「お母様。紅羽さんが出発してから二日間くらいは、家が壊れるんじゃないかと思うほど、お怒りになられていました。でも、三日目の仕事から帰られてきたあたりから、何故か怖いくらい上機嫌になられて。それが、今も続いているんです」

 その朗報に、目を見開く。

 

 母が上機嫌になる理由は、決まっている。大きな商談がまとまって、母の野望に一歩近づいたときだ。母のかねてからの夢は、影山という名前を世に広めること。それはつまり。藤枝が、予想通りの話を続けた。

「一年以内に、ホテルを全国へ広げることを決めたらしいです」

 やっぱり。上機嫌の理由には大いに納得しつつ、首をかしげる。

 現在、影山ホテルがあるのは関東地区のみ。東北や関西などの一部地域に手を広げるというのなら話はわかるが、いきなり全国とは。

「どこからか、巨額な資金提供があったということですか?」

「詳細はわかりませんが、大手企業と手を組むとか……そんな話をお兄様とされていたのを小耳にはさみました」

 それが、母の上機嫌の理由に間違いないだろう。気持ち悪いほどの機嫌のよさと、辻褄が合う。途端、これは私にとっての好機だと思った。

 この大きな流れに乗じ、どさくさに紛れて、この家から出られるかもしれない。しかも、思っていたよりもずっと簡単に。胸いっぱいに大きな期待が膨らんでいく。

 門の重厚感が、急に薄く軽いものに感じた。


 

 しかし、いざ家の中に入りリビングへ行き、ソファで雑誌を読んでいる母を前にすると、急激な緊張感が駆け上がってきて足が震えた。声をかけた途端、怒鳴られるかもしれない。

 そんな恐れを押しながら、声を振り絞った。

「ただいま帰りました」

 雑誌のページをめくろうとしていた手が止まり、こちらへ顔を向ける。相変わらず濃い化粧がなされている。

 その表情は、怒りどころか、笑顔だった。

 

「おかえりなさい。ちゃんと、帰ってきてくれてよかった」

 勝手な行動をしたことを咎めるどころか、気遣うような言葉がかけられる。

 いつも母は私に興味はなかった。物心ついたころから、一度も。それなのに、急にどうしたのだろう。困惑しかなかった。

 母の意識に、私の存在は少なからず残っていたことに、嬉しささえ感じてしまいそうになる。

「勝手に、申し訳ありませんでした」

 自然と、謝罪の言葉が零れた。

 さすがに、責められるだろう。覚悟しながら、頭を下げる。だが、一向に叱責は飛んでこなかった。やはり、不気味なほどの優しい声と笑顔が向けられてくる。

 

「今回のことは、なかったことにしてあげます。そのかわり、二日後の日曜日。大切な会食の約束があるの。それに、一緒に来て頂戴」

 日曜日の内容は、気になりはしたが、そんな要求だけで今回のことはお咎めなしということで、いいのだろうか。

 私がいない間に、人格が変わった?

 驚きばかりが頭を占領して、言葉が出ずにいると、いつもの母の顔の顔になる。

「わかったわね?」

 苛々したように、腕組みした人差し指がトントンと何度もたたいている。

 前言撤回する。やはり、いつもの母だ。

 別世界に身を置いていた時には、すっかり忘れていた母への畏怖が呼び覚まされる。恐れおののくように、ぞわっと髪の毛先まで鳥肌が立った。

 それでも、握りしめた拳の中にある決意は、消せない。手のひらに爪が食い込むほど、強く握った。

 

「……日曜日の件は、わかりました。でも……その前に、お母さまにお話したいことがあります」

 何とか、渾身の思い出切り出した声を、くっきり足されているアイラインが消えてしまうほど、母は目を見開いていた。

 こんな風に私から話を切り出したことなんて、一度もない。驚くのは当然だと思う。

 同時に、母の中で警戒心が生まれたのだろう。

「あなたの話は、聞きたくありません」

 有無を言うことを許さない強い口調で返ってくる。

 いつもの私は、もう何も言えなくなって押し黙ることしかできない。

 でも、今の私は違う。

 脳に強く刻まれている自由な空気と景色を思い出す。同時に、後藤のプロポーズの言葉が木霊した。それが目覚めの呪文だったかのように、ずっと息をひそめ続けていた勇気が目覚めたのかもしれない。

 か細い声ながらも、何とか食らいついていた。

 

「それでも、どうしても、お話したいのです」

 あきらめない姿勢に、母は鋭い刃で断ち切るように、鋭く睨んでいた。

 ただでさえ吊り上がった目尻。引かれたアイラインで更に鋭さを倍増させ、黒目より白目の面積の方が多くなる。この目を見ると、私はいつも首元にナイフを突きつけられたような、錯覚に陥る。

「聞きたくないっていってるでしょ!」

 鼓膜が破けてしまうのではと思えるほどのヒステリックな声で、私へとどめさしてくる。

 これは、私を黙らせる時の常套手段だとわかっている。それなのに、身体が勝手に反応してしまう。

 手が震えて、声がでなかった。喉の奥がきゅっと締まって、浅い呼吸をすることだけで精一杯になってしまう。同時に、背筋に冷たい汗が次々と滑り落ちて、体温を奪っていく。俯いて立っていることだけで、精一杯になりそうだった。母は、ソファから立ち上がった。

 それでも、諦める訳にはいかない。母は、負けじと顔を上げる私の横に一瞬立って、ヒールの靴で踏みつけるように、冷たく見下ろしていた。

 

「日曜、私の言うことを聞いてくれさえすれば、話は聞きます。それでいいわね?」

 先ほどのヒステリックから一転、落ち着いた空気を纏って言う母に、私は戸惑いながら頷く。

 母は、大きなため息をついて、リビングから立ち去っていた。

 

 へなへなと、その場に座り込んでしまいそうになるが、笑顔がこぼれていた。

 日曜の会食さえ終われば、話を聞いてくれる。

 その言葉だけで、この先の私の人生は明るく輝くと、信じて疑うことはなかった。


 

 

 


 

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