鬼が出るか、蛇が出るか
志に異議アリ
第1話 父
男は、眠れなくなった理由を正確には覚えていない。
最初は仕事だった。
上司の声が、夜になっても耳から離れない。
数字、期限、責任。
どれも形がなく、逃げ場もなかった。
次に、金だ。
ローンの返済予定表は、
冷蔵庫の横に磁石で貼られている。
見ないようにしても、
白い紙は視界の端で主張してくる。
今月も足りない。
来月はもっと厳しい。
電卓を叩く音だけが、夜に響く。
そして、妻。
スマホを伏せて置く癖。
風呂の時間が長くなったこと。
香水の匂いが変わったこと。
証拠はなかった。
だが、確信だけがあった。
男は、誰にも言わなかった。
言えば壊れるとわかっていたからだ。
家庭も、自分も。
ある朝、鏡がうるさくなった。
洗面所で顔を上げた瞬間、
映った男が、こちらを見ていなかった。
――お前が悪い。
声はしなかった。
だが、確かにそう言われた気がした。
仕事ができないのも、
金が足りないのも、
妻に裏切られたのも、
全部、自分のせいだと。
男は、鏡を拭いた。
何度も、何度も。
だが、汚れは落ちない。
むしろ、目だけがはっきりしていく。
「……黙れ」
そう呟くと、胸が少しだけ楽になった。
それから、鏡と話す時間が増えた。
妻は気づいていたが、何も言わなかった。
男はそれを、理解だと思った。
息子は、何も聞かなかった。
それが救いだった。
ある夜、男は帰宅した。
リビングの灯りは消えている。
寝室から、かすかな物音。
ドアを開けると、
妻はスマホを胸に抱いたまま、振り向いた。
その顔は、驚いていなかった。
「……話があるなら、明日にして」
その一言で、
何かが決定的に崩れた。
鏡の声が、はっきりとした。
――あいつだ。
――お前を壊したのは。
男は台所へ向かった。
包丁を手に取る感覚は、妙に現実的だった。
洗面所の鏡に、
妻の姿が映る。
歪んだガラスの中で、
それは“自分を嘲笑う存在”に見えた。
「終わりにしよう」
男は、鏡に向かって刃を振り上げた。
悲鳴は、短かった。
床に倒れる妻を見下ろしながら、
男は不思議な静けさを感じていた。
これで、
すべてが静かになる。
そう、信じていた。
鏡には、血が跳ねている。
だがもう、何も語りかけてこなかった。
男は、深く息を吐いた。
背後に、誰かの気配があることには
まだ、気づいていなかった。
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