ポンコツ推理の正しい使い方
海鳴 雫
第1話 間違った推理の始まり
夕暮れの駅前は、昼の喧騒が嘘だったかのように静まり返っていた。
通勤客の波が引いたあとの空気は重く、アスファルトに残る熱が、じわりと立ち上っている。
「……ねえ、恒一」
不意に、隣を歩いていた澪が足を止めた。
御影澪。
探偵を目指している幼馴染で、推理力は致命的に低い。
だが――観察力だけは、誰よりも鋭い。
澪の視線の先には、駅前の雑居ビルがあった。
入口付近にできた小さな人だかり。その中心で、ひとりの男が地面に座り込んでいる。
「倒れてる……よね?」
澪はそう言ったが、声に切迫感はない。
朝霧恒一は答えず、まず周囲を見渡した。
救急車のサイレンは聞こえない。警察もまだだ。
だが、人だかりの距離感が妙だった。誰も男に近づこうとせず、触れようともしない。
――意識はある。
――だが、助けを求めていない。
「事件だよ、これ」
澪は、確信めいた口調で言った。
「……事件?」
「うん。たぶん、殺人未遂」
恒一は、内心で小さく息を吐いた。
始まった。澪の“推理”だ。
「理由は?」
「雰囲気」
即答だった。
「雰囲気?」
「だって、あの人。苦しそうじゃないのに立たないでしょ。周りの人も変に距離取ってるし……それに」
澪は男の足元を指差した。
「靴が左右で違う」
恒一の思考が、そこで一気に加速した。
確かに違う。
だが、それだけで殺人未遂と断じるのは、あまりにも飛躍している。
「誰かに襲われて、逃げてきたんじゃない? 途中で履き替えたとか」
「なるほど……」
――違う。
だが、完全に外れているわけでもない。
恒一は視線を落とし、男の袖口を観察した。
擦れた跡。粉っぽい汚れ。
同じ色の粉が、ビルの壁にも付着している。
建設現場用の仮囲い。
石膏か、セメントか。
男は座り込んでいるが、倒れてはいない。
血痕はなく、外傷も見当たらない。
だが額には薄く汗が浮かび、呼吸は浅い。
――毒。
――遅効性。
「澪」
恒一は、声を低くして言った。
「その推理、少し整理しよう」
澪がこちらを見る。
自信と期待が入り混じった、いつもの表情だ。
「靴が違うのは、履き替えたからじゃない。急いで外に出ただけだ。片方は室内履きだよ。このビル、事務所が多い」
「え……じゃあ」
「彼は、誰かに“何かを飲まされた”」
澪の目が、はっきりと見開かれた。
「それって……」
「未遂だ。君の言った通り」
遠くから、サイレンの音が近づいてくる。
誰かが通報したのだろう。
恒一は最後にもう一度、男とビルを見た。
そして、確信する。
――犯人は、この中にいる。
澪の推理は、相変わらず間違っている。
だが、進む方向だけは、決して間違えない。
この日を境に、二人は知ることになる。
この“間違いだらけの推理”が、
やがて警察さえも動かす力を持つことを。
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