第2話 一度だけの約束

セルマ・アンドルフが嵐のように去っていった翌日。

 アルノ・ステルモは、いつものように夜明けとともに目を覚ました。

 かつては重い鎧を身にまとい、愛竜の咆哮を合図に戦場へ赴いていた時間だが、今の彼が手にするのは使い古された木製のジョウロだ。

 「……よし、今日もいい具合だ」

 朝露に濡れたナスやピーマンの葉が、朝日にキラキラと輝いている。

 十五年間、剣を握りしめ、常に死の影を感じながら生きてきた。

 王国の平和を守るという大義名分はあったが、土の匂いを感じ、静かに植物と対話する今の生活こそが、アルノが心の底から切望していた「報酬」だった。

 だが、その静寂は長くは続かなかった。

 数日後。

 アルノが腰をかがめて雑草を抜いていると、再びあの重厚な馬蹄の音が近づいてくる。

 見上げずともわかる。現役の王国騎士団長が、このクソ忙しい時期にまたやってきたのだ。

 「アルノ! 考え直してくれたか!」

 馬から降りるなり、セルマは開口一番に叫んだ。

 アルノは泥のついた手を膝で拭い、深いため息をつく。

 「セルマ。お前、団長の仕事はどうしたんだ。そんなに毎日暇なのか?」

 「暇なわけがあるか! 書類仕事は夜に回している。それよりも、君の勧誘の方が優先順位が高いのだ。いいか、アルノ。今の冒険者ギルドの惨状を知っているか? 魔物の活性化に伴い、依頼は増える一方だ。だが、それをこなせる上級の冒険者が絶望的に足りない。君がいれば、救われる命がどれほどあるか……!」

 「熱弁しても無駄だ。俺は引退したんだよ。今の俺はただの農夫だ」

 「農夫が、そんな鋭い身のこなしで鍬を振るうか! 君の体は、まだ戦い方を忘れていないはずだ」

 セルマは食い下がる。

 その熱意は、同期として共に戦った頃から何も変わっていない。

 真っ直ぐで、少々暑苦しい。

 「お断りだ。俺は、この郊外で畑いじって生活するスローライフを送りたいんだよ」

 「そこをなんとか! 見学だけでもいい! 一度、王都のギルドに顔を出して現状を見てくれれば、君だって放っておけなくなるはずだ」

 「……見学だけか?」

 アルノは少しだけ動きを止めた。

 ここで頑なに断り続けても、この猪突猛進な団長は、毎日自分の畑を荒らしに来る(本人に自覚はないだろうが)に違いない。

 一度だけ顔を出して、「やっぱり俺には向いていない」と突きつければ、諦めてくれるのではないか。

 そんな甘い考えが、アルノの脳裏をよぎった。

 「わかった。一度だけだぞ。一度ギルドに顔を出したら、二度とこの話は持ち出さない。それでいいな?」

 「ああ! 約束しよう。さすがアルノだ、話がわかる!」

 セルマはパッと表情を明るくし、アルノの肩を強く叩いた。

 その力強さは、まるで獲物を捕らえた猟犬のようだった。

 数日後。

 アルノは数ヶ月ぶりに王都の土を踏んだ。

 農作業用の服を、少しだけ丈夫な旅装に着替えただけだったが、背筋を伸ばすと元竜騎としての風格が隠しきれずに漏れ出る。

 セルマに連れられて訪れた冒険者ギルド「黄金の盾亭」。

 扉を開けた瞬間、熱気と、そしてどこか殺伐とした空気がアルノを包み込んだ。

 掲示板には、血痕のついた依頼書が何枚も重なり、受付には怪我を負った若い冒険者たちが列をなしている。

 「……これが、現状か」

 「そうだ。君が見ていた騎士団の秩序とは違う。ここはもっと泥臭く、そして人手が足りていない戦場なんだ」

 セルマがギルドマスターの部屋へ案内しようとした、その時だった。

 「おい! そこのおっさん! 邪魔だ、どけよ!」

 後ろから、荒々しい声が響く。

 振り返ると、大剣を背負った血気盛んな若者が、苛立ちを隠さずにアルノを睨みつけていた。

 どうやら、ギルドの入り口で立ち止まっていたのが気に食わなかったらしい。

 「……すまないな」

 アルノは穏やかに道を譲ろうとした。

 だが、若者の視線はアルノの腰元――かつての名残で身につけている、年季の入った小剣に止まった。

 「へっ、そんな安っぽいなまくらを下げて、見学か? ここは遊び場じゃねえんだよ。素人は大人しく畑でも耕してろ!」

 その瞬間、セルマの眉間がピクリと動いた。

 アルノは「おい、やめろ」と目配せしたが、遅かった。

 「……若いの。その男が誰か知っての狼藉か?」

 セルマが冷徹な声を出す。

 「あぁん? 誰だって関係ねえよ。実力のない奴は消えろって言ってんだ!」

 若者がアルノの胸ぐらを掴もうと、手を伸ばした。

 アルノは溜め息をつきながら、反射的にその手首を軽く払い、相手の重心を崩した。

 ほんのわずかな、農作業で培った体重移動。

 しかし、それは竜の背で猛烈なGに耐え続けてきた男の、極限まで無駄を省いた「技」だった。

 「がっ……!?」

 若者は何が起きたのか理解できぬまま、石畳に転がっていた。

 静まり返るギルド内。

 セルマは満足げに、そして獲物を追い詰めた笑みを浮かべて、アルノの耳元で囁いた。

 「……アルノ。君、今、完璧に『現役』の動きをしたな?」

 アルノは天を仰いだ。

 一度だけ顔を出す、その「一度」がいけなかったのだ。

 ギルドマスターの部屋から、騒ぎを聞きつけた強面の大男が顔を出す。

 「おいおい、今の動きは何だ? 面白い逸材がいるじゃねえか」

 アルノ・ステルモのスローライフへの帰還は、どうやらまた一歩、遠のいてしまったようだった。

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