【長編】縁切りの刺繍が完成する前に、旦那様が溺愛してきました

浅沼まど

序章 ~灰色の糸~

第1話 『一人きりの食卓』

 燭台しょくだいの炎が、長いテーブルの上でゆらゆらと揺れていた。


 十二人は座れるであろう食卓に、イレーネはたった一人で向き合っている。

 銀の食器が冷たく光る。給仕が音もなくスープを注ぎ、音もなく下がっていく。広すぎる食堂に、スプーンが皿に触れる音だけが響いた。


「……奥様」


 背後に控えていた侍女のマルタが、堪えかねたように声をかけてきた。


「旦那様は、今宵こよいも書斎でお召し上がりになるそうです」

「そう」


 イレーネは顔を上げることなく答えた。

 知っている。いつものことだ。

 結婚して一年。夫と食卓を共にしたのは、数えるほどしかない。それも、来客があった時だけ。二人きりの食事など、一度もなかった。


「奥様、せめてもう少し召し上がってください。このところ、お顔の色が——」

「ありがとう、マルタ。でも、もう十分よ」


 スープを半分ほど残して、イレーネは席を立った。

 マルタが何か言いたげな顔をしているのは分かっていた。この忠実な侍女は、イレーネの母の代からファーデン家に仕えている。嫁入りの際についてきてくれたのは、彼女の厚意こういだった。

 だからこそ、心配をかけたくない。

 イレーネは努めて穏やかな笑みを浮かべた。


「少し疲れているだけ。部屋で休むわ」

「……かしこまりました」


 マルタの視線が背中に刺さるのを感じながら、イレーネは食堂を後にした。

 長い廊下ろうかを歩く。

 石造りの壁には、歴代のヴェルナー辺境伯へんきょうはくの肖像画が並んでいる。厳めしい顔をした男たちが、額縁の中からイレーネを見下ろしていた。


 この城に来て一年。未だに、ここが自分の居場所だとは思えない。


 客人として滞在しているような——いや、客人ならばもう少し歓迎されるだろう。イレーネの立場は、客人以下だった。

 自室に戻り、扉を閉める。

 ようやく一人になれた。

 イレーネは窓辺に歩み寄り、分厚いカーテンの隙間から外をのぞいた。

 北の大地は、既に雪に覆われている。月明かりに照らされた白い世界は美しかったが、どこまでも冷たかった。


「……寒いわね」


 呟いて、自分で苦笑する。

 寒いのは、外だけではない。この城全体が、凍りついているようだった。

 いや——凍りついているのは、夫との関係だ。

 クラウス・ヴェルナー。

 「北の氷壁」と呼ばれる辺境伯。

 イレーネの、夫。


 一年前の結婚式を思い出す。


 政略結婚だった。ファーデン伯爵家の財力と、ヴェルナー辺境伯家の軍事力。双方にとって利のある縁組だと、父は言った。

 イレーネに拒否権はなかった。いや、拒否しようとも思わなかった。どうせ『縁切りの家』の娘に、まともな縁談など来ないのだ。辺境伯家に嫁げるだけ、ましだと思うべきだった。

 結婚式の日、初めて間近で見た夫の顔を覚えている。

 黒い髪。鋭い灰色の瞳。整った顔立ちではあったが、そこには何の感情も浮かんでいなかった。

 誓いの言葉を交わした後、彼が言ったのはたった一言。


『よろしく頼む』


 それが、夫から聞いた最初の言葉だった。

 そして——最後の言葉でもあった。

 あれから一年。

 夫との会話は、事務的な連絡事項だけ。

 「今度の社交会には出席する」「来月、王都に行く」。

 それすらも、執事のヴィルヘルムを通して伝えられることがほとんどだった。

 初夜から寝室は別。

 食事も別。

 屋敷の中ですれ違っても、目を合わせることすらない。

 イレーネは、夫にとって空気のような存在だった。いや、空気ならばまだ必要とされる。彼女は、そこにあっても誰も気にしない調度品——花瓶か、壁掛けの絵画のようなものだった。


「……ばかみたい」


 窓ガラスに額を押し当てて、イレーネは呟いた。

 冷たいガラスが心地よかった。熱を持った頭が、少しだけ冷える。

 期待していなかったと言えば嘘になる。

 政略結婚でも、いつかは——そんな淡い希望を抱いていた時期もあった。

 優しい言葉の一つでもかけてもらえれば。

 名前を呼んでもらえれば。

 食事を共にして、他愛のない会話ができれば。

 それだけで、イレーネは幸せだったのに。


 一年間、待った。

 何も変わらなかった。

 夫の態度は最初から最後まで同じ。冷たく、無関心で、イレーネなど存在しないかのように振る舞い続けた。


「もう……」


 疲れた。

 待つことに、期待することに、失望することに。

 このまま何十年も、空気のように扱われ続けるのだろうか。子を成すこともなく、名ばかりの妻として、この冷たい城で朽ちていくのだろうか。

 それは、あまりにも——。


「……いやよ」


 声に出して言った。

 自分の声が、思いのほか強かったことに驚く。

 イレーネは窓から離れ、部屋の中央に立った。

 そして、目を閉じる。

 意識を集中させると、まぶたの裏に淡い光が見えてきた。

 これは、ファーデン家の女に代々伝わる「視る力」。人と人の間に結ばれたえにしを、糸として視ることができる能力だ。

 目を開ける。

 すると、世界が一変していた。

 部屋の中に、無数の糸が浮かんでいる。

 マルタとの間に結ばれた糸は、温かな金色。長年の信頼と愛情が、その色に表れていた。

 実家にいる父との糸は、堅い銀色。義務と血縁で結ばれた、冷たいが確かな繋がり。

 そして——イレーネは、自分の胸元から伸びる一本の糸を見つめた。

 夫との間に結ばれた糸。

 結婚式の日、それは確かに銀色に輝いていた。婚姻という契約によって結ばれた、確かな縁。

 今、その糸は——


「……灰色」


 イレーネは息を呑んだ。

 銀色だった糸は、すっかり色褪せていた。灰色を通り越して、ほとんど透明に近い。今にも消えてしまいそうな、はかないい糸。

 これが、一年間の結果だった。

 愛されることを待ち続けた、一年間の答え。

 縁は、こんなにも簡単に消えていくのだ。

 結ばれたはずの糸は、何もつむがれなければ、やがて朽ちて消える。


「……なら」


 イレーネは、震える手で糸に触れた。

 指先に伝わる感触は、驚くほど頼りない。少し力を入れれば、ぷつりと切れてしまいそうだった。


「なら、私から——切ってしまおうかしら」

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