【第四章】 戻れない
バックヤードの白い廊下に、電気が落ちていた。非常灯の緑だけが、薄く床を撫でる。
私は、そこに立っていた。終業のチャイムはとうに鳴って、皆は更衣室へ流れていったあと。
指先が、わずかに震えている。寒いわけじゃない。息の置き場所を、うまく見つけられないだけ。
——なんで、今なんだろう。
昔の感情が蘇った、なんて言葉はちがう。懐かしさでも、未練でもない。ただ、思い出したのだ。私が、誰のために大人になったのかを。
高校三年の冬。転校してきたばかりで、教室の空気に触れるたび静電気みたいに痛かった季節。最初に声をかけてくれたのは、直人だった。
合格祈願のお守りを二つ、無造作に出してきて「片方、お前な」と笑った。安っぽい鈴の音が、やけに澄んでいた。
私はそこから、呼吸の仕方を覚えた。
恋という名前では足りない温度。
世界に味が戻る感じ。
まっすぐで、優しすぎて、壊れやすい彼に、私は助けられた。
だから——逃げた。
卒業式の前夜、「ごめん。会わないほうがいい」とだけ残して、消えるみたいに離れた。
家が崩れていく音の中。
父は遅く帰り、母は声をなくした。食卓は湯気を上げなくなり、窓ガラスだけが季節を運んだ。
そんな家の影を、彼の未来に落としたくなかった。言えば、直人は助けようとする。助ければ、彼の人生は私に結びつく。
その未来を、当時の私は望めなかった。
望む勇気がなかった。
家を出て、私は働き、学んだ。どんなに強く選んでも、別れは勝手にやってくること。愛しても、届かない夜があること。
それでも人は生きること。
その全部を、社会という現実で、何度も見た。
だから誓った。
「せめて、誰かの始まりの形だけは、美しく残す」
それが、私の仕事になった。
廊下の端で足音が止まり、カーテンが揺れる。
「葵さん、まだいたんですか?」
音葉が顔を出した。
いつも通り、やわらかい髪留め。
その柔らかな結び目が、愛しい。
「うん、ちょっとね」
「顔、赤いです。泣いた?」
「泣いてないよ」
笑って首を振る。笑えるうちは、大丈夫。
「今日は私、タクシーで帰ろうかな」
「送りますよ」
「ありがと。でも、一人で帰りたい夜もあるの」
音葉は、それ以上踏み込まない。プロは距離を知っている。ロッカーでカードキーをしまって、私は手帳を抱きしめるように持った。
白い表紙は少し擦れていて、角が丸い。開けば、そこに直人と優衣さんの導線、音楽、花、灯り、言葉が並んでいる。
私は明日、これを滞りなく流さなければならない。「仕事だから」——その一言に、どれだけの感情を畳んできただろう。
——直人。
あの人は、変わっていた。大人になっていた。
責任の重さを知り、誰かを守る形を選ぼうとしていた。
でも、出会った時の直人らしさは同じ。まっすぐで、優しすぎて、壊れやすい。
「ほんとずるいよね。忘れられるわけないじゃん。」
式場見学の二日後、私は『指輪店の下見動画』の確認を頼まれて、営業時間外に小部屋のモニターで再生した。
店内の白、グラスに似た照明、静かなBGM。
映像の中で、優衣さんが笑って言う。
「シンプルなのがいいよね」
「そうだな」
指輪は、選択の証。
誰と生きるか。
どこに帰るか。
それは未来の輪郭を、指に刻む行為。
画面の中の彼は、試着したリングの縁を親指でなぞいだ。
ふと、視線が遠くなる。
思ったより、私には冷たかった。
彼は嘘がつけない。
だから、揺れるときは、本当に大切なものを想い出したときだ。
映像が止まる。反射的に一時停止を押してしまった私の指は、小さく震えていた。言えない言葉が、喉の奥にずっと残っている。
初恋だった。
大切だった。
終わってなんか、いない。
……でも、いまの自分には持て余す火。
私は、画面を消して手帳を閉じた。仕事に戻る。
それが、私の逃げ方であり、強さの形でもある。
三階のドレスフロア。柔らかい木目と生成りの壁。布の匂いと、アイロンの湯気。私はオフショルダーのラインを撫でて、糸の飛び出しがないか指先で確かめる。
優衣さんには、柔らかい白が似合う。眩しさではなく、寄り添う白。息を吸うタイミング、立ち方、鏡の前の角度——一つひとつ伝える。
「少し、息を吸ってください。そう、ゆっくり」
いつも通りの声で。十年前と、少しも変わらない声で。直人の視線が、鏡越しにこちらを掠める。私は、見ない。プロの手は、揺れない。
背中のリボンを結ぶ。
蝶の形は、左右が揃えばいいわけじゃない。
重心の置き方で、見え方は変わる。
彼女が一歩、前へ踏み出せる結び目にする。そうやって、私は毎日、誰かの始まりの背を押してきた。
「素敵です。ご新婦様に、ぴったりです」
仕事の声で言う。その奥で、薄い紙が静かに燃えるみたいに、何かが音もなく灰になっていく。ラウンジで書類をまとめる私に、直人の気配が近づいた。
「……大丈夫?」
私が先に言ってしまう。本当は、自分に向けて問うべき台詞だった。彼は笑いきれずに問う。
「どうすればよかった?」
私は首を振る。
「どうにも、できなかったよ」
遅れた一歩は、人生では、ずっと遅れのままだ。だから、選ぶしかない。誰の時間に、どの位置で、立つかを。
「優衣さんのこと、ちゃんと見てあげて」
静かに、それだけを置く。
責めない。叱らない。
事実だけを、真ん中に置く。
あなたは思い出を見ている。
彼女は、いまを見ている。
その非対称は、幸福の皺寄せになる。
優衣さんが戻ってきて、会話はラウンジの空調みたいに元の温度へ引き戻される。私は笑い、頷き、段取りを進める。
プロとしての顔は、いつも正確だ。その代わり、私の感情は少しずつ、裏口に押し出されていく。
夜。式場の裏の搬入口に、雨の匂いが潜んでいた。まだ降っていないのに、アスファルトが湿った手触りの気配を持つ夜がある。
明日は晴れ予報。それでも、六月は、空の言うことを簡単には聞かない。
タクシーを呼ぼうとして、やめた。
歩きたかった。気持ちに、足音をあげたかった。
駅までの道で、ショーウィンドウに映る自分の影が、思っているよりも小さいことに気づく。このサイズで、どれだけの始まりを見守ってきたんだろう。どれだけの終わりを、胸の内側に折りたたんできたんだろう。
ポケットの中で、古い鈴が鳴る。あのお守りの鈴ではない。別の、安いストラップ。でも、鳴り方は似ていた。
冬の駅前。雪。破れた袋。転がるみかん。
「一緒に帰ろう」
あの言葉は、世界でいちばん簡単で、難しい約束だったのだと思う。私は、自分に言い聞かせる。
私は『過去』を担当しない。
私は『未来』を担当するプランナーだ。
私が美しくしなければならないのは、想い出じゃない。明日のバージンロード。
直人の『選んだ未来』だ。
優衣さんの『いま』の呼吸だ。
最終確認の夜。披露宴会場は照明が落とされ、スタッフ用の足元灯だけが床を流れている。空のテーブル、花のない花器、運び込まれていない音の空席。まだ、何も始まっていない場所は、美しい。可能性は、光る塵のように漂う。
私は一人、歩いた。新郎新婦入場の位置、親御様の席、ケーキナイフの置点、テープカットの導線。
頭の中に、音楽と拍手のタイミングが網のように広がる。その網の一つひとつに、落ちるべき言葉と沈黙が、既に決まっている。
扉が開く音。直人が立っていた。照明に照らされない顔は、少しだけ影を連れている。
「来てくれて、ありがとう」
私は言う。仕事の言葉。
でも、胸のどこかで、別の意味が鳴る。
私は一歩、彼に向いた。会場の真ん中で向かい合う。誰もいない椅子が、私たちの会話を聞いている。
私は、彼の婚約者のことを話した。
「綺麗な人だね。優しい人だよね。あなたは、やっと、安心を選べるようになったんだ」
言葉にしながら、胸の底でひとつずつ灯りを消していくみたいだった。
「覚えてる? 冬。駅前の広場で、転んだとき」
彼が息を呑む音が、静かな会場でよく響いた。
私は続けた。
「家のこと、言わなかったのは間違いだった。
でも、言ってしまったら、あなたは私を助けようとした。その未来を、当時の私は望めなかった。臆病だったのは、私」
沈黙。
「……俺は、あのとき、言ってほしかった」
「うん。言うべきだった」
「でも、言わなかった」
「うん」
言葉は、過去をやり直さない。
ただ、過去の温度を、今日の体温に移すだけだ。
私は、彼の胸に、そっと指先を触れた。
心掛けた。やわらかく。やさしく。痛みのない声を。
「あなたは、もう私のものじゃない。でもね、ここにいた私は、嘘じゃなかった」
触れて、すぐに離す。私の指先に残ったのは、布の質感と、彼の呼吸のわずかな上下だけ。
「ちゃんと、幸せになって」
彼は頷いた。私は、入口の灯りに向かって歩いた。扉の前で一度だけ振り返る。
「ありがとう。あの日、拾ってくれたみかん」
扉が閉じる音が、小さな終止符になった。
スタッフ通用口を出ると、空は湿っていた。
降り出しそうで、降らない。六月の、迷っている雨。
私はベンチに座らない。
立ったまま、空を見上げる。
「雨の日の結婚式は、祝福される」
講習で教わった文言。私は何百組にも笑顔で伝えてきた。『ふたりの一生分の涙を、空が代わりに流してくれる』と。
私は泣かない。
泣かない代わりに、準備をする。
明日の導線。明日の灯り。明日の沈黙。
泣かない代わりに、誰かの始まりを正しく整える。それが、ウェディングプランナーの仕事だから。
雨の匂いが、少し強くなった。
空が、泣き方を思い出しそうにしている。
——いいよ、と心の中で言う。
もし降るなら、どうか静かに。彼らの笑い声が濡れない程度に。でも、見えない涙は、ちゃんと流せる程度に。
明日は、晴れの予報。
それでも、六月の空は言うことを簡単には聞かない。
手帳を胸に抱え直した。ページの中には、私の過去は一行も書かれていない。そこに書かれているのは、彼らの未来だけ。
歩き出す。足元灯が、一定のリズムで消えていく。その消え方が、少し綺麗だと思った。
私は、過去でいたかったんじゃない。ちゃんと、誰かの未来になりたかった。
けれど明日は、私の未来ではない。彼らの未来。私は、その入口に、雨が入らないように傘を差す人になる。
それでいい。
それがいい。
六月の匂いが、胸いっぱいに広がった。空はまだ泣かない。私も、まだ泣かない。代わりに、明日の祝福の準備を続ける。
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