第10話

雨は止んでいたが、空はまだ鈍い色をしていた。

午後の図書館は人も少なく、窓際の席には瑠奈たちしかいない。


瑠奈はノートを開いたまま、ペンを持つ手を止めていた。


「……ここ、なんですけど」


声が、少し掠れている。


白夜は黙って隣に座り、ページを覗き込んだ。


そこには、何度も書き直された文章があった。


――つばきは、光に包まれて、消えていく。

――鈴の音だけを残して。


「……どうしても、ここが書けなくて」


瑠奈は小さく笑ったが、その笑みはすぐに崩れた。


「消えるって……どう書けばいいのか、分からないんです。

 悲しいのに、静かで……

 それでいて、あったかい感じがして……」


白夜は、ページから目を離さなかった。


「……その通りです」


低い声。


瑠奈が顔を上げる。


「……やっぱり、そうなんですね?」


白夜は一瞬だけ言葉に詰まったあと、静かに頷いた。


「彼女は……

 “奪われた”のではなく、

 “選んで消えた”」


その言葉に、蓮華がはっと息を呑む。


「……それって……」


「だから、大声で泣いたりはしない」


白夜は続ける。


「最後まで、周りを気にしていました。

 自分がいなくなったあと、

 皆がどうなるかを」


瑠奈の胸が、きゅっと縮んだ。


「……そんな子、ひどいですよ」


思わず零れた言葉だった。


「自分のこと、後回しにしすぎじゃないですか」


白夜は、ほんの少しだけ笑った。


「ええ。

 だから……守りたかった」


その一言に、空気が止まる。


蓮が、ぽつりと口を開いた。


「……このシーン、

 なんか、読んでると……

 胸の奥が、ぎゅってなるんです」


「え?」


「理由は分かんないんですけど……

 “行かないで”って言いたくなる」


白夜は、何も言わなかった。


代わりに、瑠奈のノートを指さす。


「……ここ」


「はい?」


「つばきが消える直前、

 誰かの名前を呼ばせないでください」


瑠奈は目を瞬かせた。


「……どうして?」


白夜は、少しだけ視線を落とした。


「呼んだら……

 戻りたくなってしまうから」


瑠奈は、しばらく黙ったあと、ゆっくり頷いた。


「……分かりました」


ペンを持ち直し、

瑠奈は静かに書き直す。


――つばきは、誰の名も呼ばなかった。

――ただ、鈴の音だけが鳴った。


書き終えた瞬間、

胸の奥で、ちいさく“りん”と音がした気がした。


「……白夜さん」


瑠奈は、恐る恐る尋ねる。


「この場面……

 本当は、誰が見送ってたんですか?」


白夜は、しばらく沈黙した。


そして、答えた。


「……それは、

 あなたが最後まで書き終えたときに」


彼は、そっとノートを閉じた。


「自然に、思い出しますよ」


琉奈は、なぜかその言葉を疑えなかった。


(……書いてるのは、私なのに)


(まるで、

 “思い出すために書かされてる”みたい)


窓の外で、雲の切れ間から一筋の光が差した。


白夜はそれを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


まるで――

もう一度、誰かを見送った人のように。

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