第7話

雨はいつの間にか小降りになっていた。

窓ガラスを伝う水滴が、ゆっくりと形を変えていく。


瑠奈はノートを閉じたまま、机に肘をついていた。

白夜も、今日はページを覗き込まない。


沈黙は重いのに、不思議と苦しくなかった。


「……白夜さん」


瑠奈が先に口を開いた。


「さっきの名前のことなんですけど」


白夜は視線を落としたまま、答えない。


「使うなって言われたの、分かります。

 でも……気になってしまって」


彼女は、指先でノートの端をなぞる。


「“宵夜”って……

 どんな人だったんですか?」


白夜の肩が、わずかに揺れた。


「……人、ではありませんでした」


「え?」


「正確には……

 人であることを、やめていた」


瑠奈は言葉を失う。


白夜はゆっくりと息を吸い、吐いた。


「白夜という名前を捨てたあと、

 私は……ただ、歩いていました」


「歩いて……?」


「世界をです」


白夜は、ようやく瑠奈を見る。


その瞳に映っているのは、今の図書館ではない。

もっと暗く、長い時間だった。


「守るものは、もうありませんでした。

 待つ人も、帰る場所も」


瑠奈の胸が、きゅっと締めつけられる。


「それでも……生きていたんですね」


白夜は小さく笑った。


「ええ。

 死ねなかったので」


冗談のような口調なのに、

その言葉は重く、深く沈んだ。


「宵夜は……

 誰にも名前を呼ばれず、

 誰の物語にも残らないように生きていました」


「……それって」


瑠奈は、思わず声を落とす。


「……すごく、孤独じゃないですか」


白夜は、少しだけ首を傾けた。


「そうですね。

 でも……」


彼は、机の上に視線を落とす。


「“誰かのために生きる”ことを終えたあとでも、

 人は歩けてしまう」


瑠奈は、はっとする。


「……宵夜は、何をしていたんですか」


「……同じことを、繰り返していました」


「同じこと?」


「人を助けて、

 街を通り過ぎて、

 名前を聞かれたら、答えずに」


白夜の声は淡々としている。


「つばきがしたことを、

 私なりに、なぞっていただけです」


瑠奈の指先が震えた。


「……それ、

 楽しかったですか?」


白夜は、すぐには答えなかった。


そして、ほんの少しだけ困ったように笑う。


「……いいえ」


「じゃあ、どうして?」


「やめたら……

 完全に、終わってしまう気がしたからです」


瑠奈は、無意識にノートを抱きしめた。


「白夜さん」


「はい」


「……その名前、

 私の物語に書いちゃ、だめですか」


白夜は、静かに首を振った。


「宵夜は……

 あなたの物語には、必要ありません」


「でも」


「あなたが書いているのは、“つばき”の物語です」


白夜の声は、優しかった。


「宵夜は……

 幕が下りたあとに残った影ですから」


瑠奈は、胸の奥が熱くなるのを感じた。


「……じゃあ」


彼女は、ノートを開き、ペンを取る。


「白夜さんとしてのあなたなら、

 書いてもいいですか」


白夜は、一瞬だけ目を見開き、

それから――小さく頷いた。


「……それなら」


りん……


また、鈴の音がした気がした。


白夜はその音に、確かに気づいた。

けれど、何も言わなかった。


その夜、

瑠奈のノートにはこう書かれていた。


守り人は、名前を捨てたあとも歩き続けた。

それでも――

“誰かの物語に戻ること”を、どこかで望んでいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る