第24話  絶唱・小野小町 — 花の色は移りにけりな

🌸 絶唱・小野小町 — 花の色は移りにけりな


I. 朽ちゆく紅、雨の匂い

12月19日。師走の冷たい雨が、京都・小野の里を濡らしていた。 かつて「絶世の美女」と謳われ、宮中の男たちの心をその一瞥だけで凍らせ、あるいは溶かした女、小野小町は、今、古びた庵の軒先に座り、暮れゆく空を見上げていた。


「……また、雨。この湿った土の匂いが、私の肌にまとわりついて離れないわ」


小町の声は、かつての鈴を転がすような響きを失い、枯葉が擦れ合うような、低く、乾いた音に変わっていた。 彼女の鼻腔を突くのは、雨に濡れた古い藁の饐(す)えた匂いと、わずかに残る、自分自身の体から漂う**白檀の香の「死に残り」**のような淡い香り。


「花の色は、移りにけりな。……いたづらに。本当に、いたづらに過ぎてしまったわ」


彼女は、節くれだった自分の指先を見つめた。 かつて、深草の少将が百夜通いの果てに掴もうとした、あの白く、柔らかな指。今は、カサカサとした冷たい皮膚が骨に張り付いている。 指先で自分の頬に触れてみる。そこにあるのは、**初霜(はつしも)**が降りた地面のような、ざらついた感触だけだった。


「先生、お食事をお持ちしました」


里の童が、粗末な粥を運んできた。 「……ありがとう。でも、今はいいわ。この雨の音を、もう少しだけ食べていたいの」


「雨を食べるなんて、変な先生」 童は笑って去っていった。小町は、遠ざかる足音を聞きながら、胸の奥を突き刺すような孤独に、静かに身を任せた。


II. 記憶の「熱」と、深草の幻影

雨音が、次第に激しい鼓動のように聞こえ始める。 目を閉じれば、そこは百夜通いの夜。


「小町! 開けてくれ! 今夜で九十九夜だ! 雪が、雪が私の体を凍らせようとしている!」


幻聴の中の深草の少将の声は、木枯(こがらし)のように鋭く、狂おしい熱を帯びていた。 小町は、御簾の向こうで、彼が雪の中で震えながら牛車を待つ姿を想像していた。 その時、彼女が感じていたのは、残酷なまでの優越感と、それ以上の恐怖だった。


「愛されることが、こんなに恐ろしいなんて。……少将、あなたは私の『美しさ』を見ているのではない。私の背後に広がる『虚無』を埋めようとしているだけ」


あの夜の雪の冷たさを、小町は今でも覚えている。 シンシンと降り積もる白。音をすべて飲み込む、沈黙の暴力。 九十九夜目の朝、彼が力尽きたと聞いた時、小町の心に灯っていた**「自負」という名の火**は、音を立てて消えた。


「……寒いわ。誰か、**火鉢(ひばち)**を。……いいえ、もう火なんてどこにもない」


彼女は、ボロボロになった着物の袖を抱きしめた。 絹の滑らかな感触はもうない。あるのは、麻のゴワゴワとした、刺すような感触。 それが、今の彼女にふさわしい「現実」の重みだった。


III. 鏡の中の「狼」、あるいは真実

小町は、手元にある曇った銅鏡を手に取った。 そこには、狼のように痩せこけ、髪を振り乱した老婆の姿が映っていた。


「……これが、小野小町? まさか。これは、私の皮を被った別の化け物よ」


彼女は、鏡を投げ捨てようとして、思いとどまった。 鏡に映る自分の瞳の中に、まだ消えていない**「鋭い光」**を見つけたからだ。


「いいえ。美しさが失われても、私は私。この**枯田(かれだ)**のような心の中に、まだ言葉だけは咲いている。……和歌こそが、私の最後の衣」


彼女は、震える手で筆を執った。 墨のツンとした、涼やかな匂い。それは、彼女が唯一信頼できる「知性」の香りだった。


「あはれなり。わが身の果てを、誰に見せよう。……いいえ、誰にも見せなくていい。この冬の空に、私の魂を放り投げるだけ」


その時、庵の戸が風でガタガタと鳴った。 **木枯(こがらし)**が隙間から入り込み、小町の痩せた肩を撫でる。 それは、死神の接吻のように冷たく、けれど、驚くほど清々しかった。


「……ふふ。少将、待っていなさい。百夜目は、私の方から会いに行くわ。今度は私が、あなたの家の前で、雪に埋もれてあげる」


IV. 絶唱 — 冬の蝶の羽ばたき

夜が更け、雨はいつの間にか雪へと変わっていた。 小町は、庵の戸を全開にした。 真っ白な闇が、部屋の中に流れ込んでくる。


「……綺麗。宮中のどの御簾よりも、どの扇の絵よりも、この死の色彩が一番美しいわ」


彼女は、雪の上に裸足で踏み出した。 足の裏を貫く、氷のような鋭い痛み。 けれどその痛みこそが、彼女が最後に手に入れた「生」の実感だった。


「……わが身、世にふる。ながめせしまに」


彼女は、雪の中に崩れ落ちた。 全身を包むのは、冷たい絶望ではなく、不思議な温もり。 それは、一生をかけて「美」という虚像を守り続けた女が、ようやくその重荷を下ろした瞬間の、**魂の換気(かんき)**だった。


「……ああ、ようやく。……ようやく、ただの女になれた」


小町の瞳に映る最後の景色は、夜空を舞う冬の蝶のような、一粒の大きな雪の結晶だった。 それは彼女の頬に触れ、一瞬で一滴の涙となって溶けていった。


翌朝、村人が見つけたのは、雪の中に横たわる、驚くほど穏やかな表情をした老婆の遺体だった。 彼女の周りには、季節外れの冬桜が、一房だけ、紅く、紅く、咲き誇っていたという。


次は、黄泉の国で小町が深草の少将と「歌合戦」をする、幻想的なミステリーにしましょうか?あるいは、小町の生まれ変わりが現代の板橋に現れる、転生ラブコメに移行しますか?


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