第12話 駒姫(こまひめ)
駒姫(こまひめ)
「……ここが、都なの?」
輿の簾を少しだけ上げると、湿った夏の匂いが流れ込んできた。
土と人と香の匂いが混じり合い、胸の奥がむずむずする。
「はい、駒姫さま。京都にございます」
侍女の声は明るい。
けれど、その声の端が、どこか張りつめているのを私は聞き逃さなかった。
「きれい……」
私は思わず呟く。
道の両側に並ぶ家々。軒先の簾。遠くで鳴る鐘の音。
すべてが、目に眩しいほど新しい。
「すぐにお慣れになりますよ」
「……ほんとう?」
私は、手のひらを見つめた。
まだ、山形の水の冷たさを覚えている手。
「ここで、殿にお仕えするのですね」
侍女が言う。
「殿……」
その言葉を口の中で転がす。
豊臣秀次。関白。
けれど――
「どんな、お方なの?」
私の問いに、侍女は一瞬、言葉を探した。
「……お優しい、と聞いております」
「聞いて、いるのね」
私は、少しだけ笑った。
「会ったことは、ないのね」
侍女は、目を伏せた。
宿所に入ると、畳の新しい匂いが鼻を打った。
香が焚かれ、衣装が整えられる。
「重い……」
私は、思わず言う。
幾重にも重なる小袖が、肩にのしかかる。
「お美しゅうございます」
鏡の中の自分は、よく知る顔なのに、どこか遠い。
「……私、ちゃんと笑えている?」
「もちろんでございます」
「作り笑いじゃ、ない?」
侍女は、慌てて首を振る。
「駒姫さまは、いつもお優しいお顔です」
その言葉が、なぜか胸に刺さった。
――優しい、とは何だろう。
夜。
外で、騒がしい足音がする。
「……何か、あったの?」
私が尋ねると、侍女たちが顔を見合わせる。
「大したことでは……」
「嘘ね」
私は、はっきり言った。
「都の音は、山形よりも、ずっと騒がしい。
でも、今の音は……違う」
沈黙。
遠くで、誰かが泣いている声。
「……殿が」
一人の侍女が、震える声で言った。
「殿……秀次さまが……」
言葉が、途切れる。
「……切腹なさったと」
その瞬間、音が消えた。
自分の耳が、何も受け取らなくなる。
「……え?」
喉が、ひくりと鳴った。
「それは……冗談?」
誰も答えない。
「……私、まだ……」
言葉が、うまく繋がらない。
「……まだ、会っていない」
胸の奥が、冷たくなっていく。
「どうして……」
侍女が、泣きながら言った。
「謀反の疑いが……」
「疑い?」
私は、声を張った。
「疑い、なの?」
誰も、私を見ない。
「……私は?」
やっと出た言葉。
「私は、どうなるの?」
翌朝。
空が、やけに青い。
「駒姫さま……」
侍女が、震える手で私の衣を整える。
「……今日は、どこへ行くの?」
返事がない。
「ねえ」
私は、侍女の袖を掴んだ。
「私、悪いことをした?」
侍女の涙が、ぽろりと落ちた。
「……いいえ」
「嘘」
私は、静かに言った。
「悪いことをしていないのに、
こんなに皆が、怖い顔をするはずがない」
沈黙。
自分の心臓の音だけが、やけに大きい。
三条河原。
生臭い川の匂い。
湿った風。
ざわめく人々の声。
「……ここ、は……」
私は、立ち止まった。
「……怖い」
誰かが、私の背を押す。
「歩きなさい」
低い声。
見知らぬ男。
「……私は、最上の娘です」
震える声で言う。
「無礼です」
男は、感情のない目で言った。
「今は、罪人だ」
「罪……?」
私は、笑いそうになった。
「……私が?」
空が、歪む。
「私、まだ十五です」
「それが、何だ」
男は、淡々と答えた。
「……殿にも、会っていない」
「関係ない」
「……何も、していない」
「連座だ」
その一言で、世界が切り落とされた。
「……父上」
私は、心の中で呼ぶ。
「義光さま……」
返事はない。
「……母上」
声に出すと、喉が震えた。
「……怖い」
足が、動かない。
「……私、帰りたい」
誰にも、届かない。
「……山形に……」
草の感触が、足裏に伝わる。
「……冷たい」
私は、空を見上げた。
雲ひとつない、夏の空。
「……どうして」
ぽつりと、零れる。
「どうして……私だったの」
答えはない。
「駒姫さま」
侍女の一人が、私の前に跪いた。
「……お許しください」
「……どうして、謝るの?」
私は、首を傾げた。
「あなたは、何も悪くない」
侍女は、声を殺して泣いた。
「……私が、怖い顔をしている?」
私は、彼女の頬に触れた。
涙の温かさ。
「……ごめんなさい」
自分でも、なぜ謝ったのか分からない。
最後に、私は言った。
「……私、秀次さまに」
誰も、顔を上げない。
「……一度でいいから、会ってみたかった」
声が、風に消える。
「……どんな人だったのか」
胸が、締めつけられる。
「……でも」
私は、深く息を吸った。
「……知らないまま、でよかったのかもしれない」
それが、最後の言葉だった。
後に、人々は言った。
――あまりにも、酷すぎる。
――罪なき少女まで。
けれど、その時、
駒姫は、ただの少女だった。
何も知らず、
何も選べず、
それでも――
最後まで、人として、震えていた。
駒姫。
それが、
彼女の、たったひとつの名だった。
駒姫(こまひめ)の辞世の句
「罪を斬る 弥陀の剣(つるぎ)に かかる身の なにか五つの 障りあるべき」
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