第4話 日野富子

日野富子


「……また、焼けた匂いがする」


障子の隙間から入ってきた風が、煤(すす)と焦げた木のにおいを運んだ。舌の奥が苦くなる。京の夜は、いつからこんな匂いをまとったのだろう。


「御台所様、火の手は東の方と申します」


女房が小声で告げる。声も衣も、どこか煙に染まっている気がする。


「東……」


私は火鉢の前で手をかざし、指先の冷えを確かめた。炭の熱がじり、と皮膚を押し返す。この熱さだけが、まだ「生きている」と教えてくれる。


「将軍様は?」


「先ほど、また絵の前に……」


「そう」


私は笑ったつもりだったが、喉の奥で音が引っかかった。

夫――足利義政。あの人は、戦の外側に立ち、墨の匂いの中で雅を撫でる。


「富子、騒がしいな」


その声がした。廊下の板が、きしりと鳴る。淡い香――沈香(じんこう)だろうか。火に焚かれた香りが、細い糸のように彼の周りに絡んでいる。


「騒がしいのは、京です」


私は立ち上がらずに言った。


「京が、燃えています。人が、死んでいます」


義政は、眉をひそめた。彼の指先には、うっすら墨がついている。


「……その話は、わたしの前でせぬでくれ」


「では、誰の前で話せと?」


私の声は冷えていた。冷えすぎて、指先が痺れるような感覚がある。


「あなたは将軍です」


「将軍は、武者が守る」


「将軍は、国を守るのです」


義政は口を開きかけ、閉じた。沈黙が重い。遠くで鐘が鳴る。寺の鐘だ。夜の闇を切る音が、胸の骨に響く。


「富子……お前は、強いな」


「強くなければ、ここに立てません」


私は、火鉢の横に置いた小箱を手に取った。蓋を開けると、銭の金属の匂いがふっと立つ。冷たく、乾いた匂い。指でつまめば、ひやりと骨まで冷える。


義政の目が、その箱に止まった。


「また銭か。世はお前を――」


「“強欲”と呼ぶのでしょうね」


先に言ってしまうと、少し楽になる。私は銭を一枚、掌に乗せた。月明かりが縁を舐め、鈍く光る。


「ねえ、将軍様」


私は、わざと柔らかく呼びかけた。


「兵は、何で動きますか」


「名誉……」


「名誉で米が買えますか」


義政が顔をしかめる。


「富子、言い方がある」


「言い方を変えれば、火が消えますか」


息が白い。冬の気配が、すでに屋敷の角に溜まっている。


「……お前は、いつからそんな」


「いつから?」


私は笑いそうになった。笑えば泣くのと同じだ。だから、笑わない。


「初めて、血の付いた衣を見た夜からです」


義政が息を止めた。


「幼い子が、母の腕の中で冷たくなるのを見た日からです」


言葉を吐くたび、喉が痛む。けれど止められない。


「だから私は、銭を集めます。米を集めます。人を雇います」


「それで、誰が救われる」


「あなたの“夢”が救われます」


その瞬間、義政の頬がわずかに引きつった。彼の夢――東山の美。庭。絵。茶。

私はそれを、悪いとは思わない。思わないが――今は違う。


「富子」


義政が低く言う。


「お前は、わたしを責めているのか」


私はしばらく黙って、銭を箱に戻した。ちゃり、と鳴る音が、夜気に冷えて響く。


「責めてはいません」


「では、何だ」


「……祈りです」


自分でも意外な言葉だった。女房が小さく息を呑む。


「私は、祈っているのです。あなたが将軍であることを、思い出すように」


義政は、視線を逸らした。香の匂いが揺れる。私は、胸の奥で小さく燃えるものを感じた。怒りとも違う、焦りとも違う――母の獣のような感覚。


「若君は、どうしている」


義政が話題を変える。

私の心臓が、どくんと鳴った。


「眠っています」


「……あの子が、次の将軍だ」


「ええ」


私は、その一言を噛みしめた。若君――義尚。小さな手。まだ柔らかい頬。乳の甘い匂い。あの子が、これから血の匂いの世界に出される。


「だから私は、銭を集めます」


言い直した。今度は、はっきりと。


「誰に何と言われようと。あの子のために。武者のために。飢える民のために」


義政が苦しげに眉を寄せる。


「富子、お前のやり方は……」


「嫌われます」


私は頷いた。


「ええ、嫌われるでしょう」


それでもいい。嫌われる痛みは、慣れている。


その時、廊下を急ぐ足音。襖が開く。


「御台所様!」


使者だ。顔が煤で黒い。汗と煙と恐怖の匂いが混ざっている。


「細川方より、援兵の要請。山名方も動き……京の市が――」


言葉が途切れた。彼は唇を震わせる。


「……子らが、泣いております」


その一言が、胸に突き刺さった。私は息を吸い、喉の奥の熱を押し込めた。


「米は?」


「尽きかけております」


「銭は?」


「足りませぬ」


義政が小さく言った。


「だから、戦は嫌なのだ……」


私は、彼を見た。

将軍の顔。逃げたい顔。夢に隠れたい顔。


「嫌でも、ここにある」


私は立ち上がった。衣が擦れ、畳に影が落ちる。


「女房」


「はっ」


「倉を開けなさい。米を出す。粥を炊かせて、市へ運ぶ」


女房が目を丸くする。


「御台所様、それでは――」


「足りなくなる?」


私は首を傾ける。


「足りなければ、また集める」


私は銭箱を抱えた。重い。けれど、この重さが、私の腕を支える。


「将軍様」


義政を振り返る。


「あなたは、夢を見てください」


彼が目を見開く。


「夢がない国は、すぐ獣になる」


私は、ゆっくり言った。


「けれど夢を見るためには、今夜生き延びねばならない」


義政の喉が動いた。唾を飲む音が、妙に大きい。


「富子……」


「私が、汚れます」


そう言うと、胸の奥が少しだけ静かになった。

汚れる覚悟。嫌われる覚悟。

それが、私の役目だ。


「あなたは、将軍でいてください」


義政が、かすかに頷いた。

私はその頷きだけを、今夜の灯にする。


庭へ出ると、風が頬を叩いた。冷たい空気が肺に刺さり、目が潤む。遠くに赤い火。空がうっすら明るい。


「……京よ」


私は、口の中で呟いた。


「燃えないで」


それは祈りだった。祈りは、いつも遅い。

だから私は、祈りだけで終わらせない。


女房が後ろから追ってくる。


「御台所様、寒うございます! せめて――」


「黙って。匂いを覚えて」


私が言うと、女房は涙ぐんだ。


「この匂いを忘れたら、私たちはまた同じことをする」


煙の匂い。土の匂い。焦げた布の匂い。

生きる匂いと、死ぬ匂い。


私は銭箱を抱え直し、足を前へ出した。


「行くわよ」


声が、夜に立つ。


「富子が行く。

――日野富子が、今日の京を、明日に繋ぐ」


背中で、義政の声が小さく聞こえた気がした。


「……すまぬ」


私は振り向かない。

振り向けば、優しくなってしまう。

優しさは、時に国を殺す。


風が、火の粉を運ぶ。頬に熱が触れた。

私は目を細め、火の色をまっすぐ見た。


嫌われてもいい。

欲深いと呼ばれてもいい。


ただ――


「生きなさい」


誰にともなく言った。

声が震えた。

震えて、それでも、消えなかった。


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