​第九章:蒼穹の再会

​第一話:剣士たちの休息

​ 

そこは、屋久島の空よりもさらに高く、雲の白さよりもさらに眩い、光のおりのような場所だった。


菅野直は、自分の体が驚くほど軽いことに気づき、ゆっくりと目を開けた。


​つい先刻まで自分を焼き、五感を狂わせていた『紫電改』の猛烈な振動も、機銃が自壊した際の外鉄の悲鳴も、今はもう遠い夢の彼方だ。右翼が吹き飛んだ衝撃も、炎に巻かれた恐怖も、すべてが嘘のように消え去り、ただただ、穏やかな凪が精神を包み込んでいる。


​「……ちっ、結局ここまで来ちまったか。もっと派手な地獄を想像してたんだがな」


​菅野が苦笑いしながら立ち上がると、眩い光の向こうから、聞き慣れた、けれどこの一九四五年の夏にはもう二度と聞けないはずの声が響いた。


​「遅かったじゃないですか、大尉。あんたのことだ、もっと早く突っ込んでくるかと思って、酒の準備をして待ってましたよ」


​そこに立っていたのは、一九四五年四月、鹿屋の空で散ったはずの、三四三空最強の剣士・杉田庄一だった。その不敵な笑みは生前と変わらず、しかしどこか透明な優しさを湛えている。


そしてその隣には、六月、大村上空で伝説的な戦いを繰り広げて散った武藤金義もいた。二人はまるで、これから初陣に向かう若者のような、晴れやかな顔で菅野を見つめていた。


​「杉田……それに武藤。お前ら、場所取りまでして待ってやがったのか。一番槍は俺の役目だったはずだろうが」

菅野が声を荒らげると、杉田は愉快そうに肩をすくめた。


「一番槍だろうが殿しんがりだろうが、ここは空の上ですから。順番なんて関係ありませんよ。それより大尉、最期のあの無線……あれは最高に生意気で、最高にかっこよかったですよ。『諸君の協力に感謝す。ワレ菅野一番』、ですか。全周波数であんなこと言えるのは、この世に菅野直ただ一人ですよ」


​武藤が静かに歩み寄り、菅野の肩に手を置いた。その手の温もりは、血の通った人間そのもののようでありながら、どこか神聖な重みを持っていた。


「お疲れ様でした、菅野さん。……それで、どうだったんですか。あんた、岩本さんと二人で数日間、どこかへ『消えて』いたでしょう。司令もどこか様子がおかしかった。あんたら、一体どこへ行ってたんです?」


​杉田も身を乗り出す。地上の人間には決して明かせなかった、あの秘密。


菅野は一度空を見上げ、深く、重い息を吐き出した。そして、今度は誰を憚ることもなく、不敵な笑みを浮かべて口を開いた。


​「……いいか、驚くなよ。俺と岩本はな、八十年後の未来を見てきたんだ」


​一瞬、杉田と武藤の顔が凍りついた。だが、菅野の瞳に宿る、あの真っ直ぐで嘘のない光を見て、二人は言葉を失い聞き入った。


「八十年後……令和っていう時代だ。いいか、そこにはな、腹を空かせて泣く子供もいなけりゃ、空襲のサイレンに怯えて地下に潜る奴もいねえ。焼け野原だった日本は、嘘みてえに綺麗なビルと、眩しいくらいの光で溢れてた」


​菅野の言葉は止まらない。


「俺たちが死に物狂いで守ろうとした日本は、ちゃんと残ってたんだ。若え奴らが好きな本を読んで、好きな女と笑い合って、誰も銃なんて持っちゃいねえ。そんな, あたりまえの景色がどこまでも広がってやがった。俺たちの戦っている間に忘れてしまった『日常』ってやつが、あそこには溢れてたんだ」


杉田が震える声で尋ねる。

「大尉……それは、本当なんですか。俺たちがここで散ることに……意味はあったんですか」


​「意味なんて言葉じゃ足りねえよ」

菅野は二人の目を真っ直ぐに見据えた。


「俺は、会ってきたんだ。源田の親父の娘にな。……よしこさんって言うんだが、八十歳になった彼女が、俺と岩本のために卵焼きを焼いてくれたんだ。泣きながら『待っていましたよ』って笑ってくれた。……俺たちの死は、敗北なんかじゃねえ。あの優しい女性が、八十年後に穏やかな余生を過ごせるための、唯一の『滑走路』だったんだ」


​杉田は、自らの機体が離陸直後に被弾し、炎上したあの忌まわしい瞬間に思いを馳せた。だが、その瞳にはもう悔いはない。


「……そうか。俺を焼き尽くしたあの炎も、絶望の空も、全部があのビルの光に、よしこさんの笑顔に繋がってたのか。なら、あの墜落さえ、悪くないと思えますよ」


​ 武藤も静かに頷いた。

「多勢に無勢、死に場所を探すような戦いでしたが……俺たちの翼が、未来の子供たちの盾になれたのなら、これ以上の誉れはありませんね」


​「ああ、無駄じゃねえ。それどころか、俺たちは勝ったんだ。あんなに綺麗な未来が、あのよしこさんのような優しい人間が八十年後も笑っていられる日本が待ってるんなら、これは俺たちの完全な勝ち戦だ」


​  菅野は、自慢げに胸を張った。


「それにな、未来の日本には『自動販売機』って魔法の箱があるんだ。銀色の硬貨を一枚入れるだけで、氷みたいに冷てえ缶が転がり出てくる。それをグイッとやると、甘酸っぱい果実の味がしてな……。あれは、命懸けで空を飛んだ俺たちへの、最高の報酬だったよ」


​杉田が、身を乗り出すようにして尋ねた。 

「大尉、そいつは一体どんな味がするんです? 蜜柑か、それともリンゴですか?」


​だが、菅野は不敵な笑みを浮かべたまま、すいと視線を逸らした。

「教えねえよ。知りたきゃ、もっと上等の酒を持ってこい。それに、その味は俺一人じゃなくて、岩本の野郎と一緒に飲んだからこその味なんだ。お前らには、あいつがこっちに来るまでお預けだ」


「ははは! そいつは殺生だ、大尉! お預けなんて言わずに、少しぐらい景気のいい話を聞かせてくださいよ!」


杉田の不満げな、しかし楽しげな笑い声が、雲の上に響き渡る。


​「ああ、いくらでも話してやる。岩本の野郎が、しぶとく生きて土産話を持ってくるまでな。あいつはこれからの十年の泥をすすり、俺たちの死を歴史に刻んで、あの未来へとバトンを繋いでくれる。間違いはねえ、あいつが来る頃には、宴会も最高潮だろうぜ」


​光の彼方から、さらに多くの懐かしいエンジン音が聞こえてくる。それは散っていったすべての若者たちの凱歌だった。


菅野直は、杉田と武藤に囲まれながら、誇らしげな足取りで光の中へと歩み出した。


​空の上。そこにはもう悲しみも絶望もなく、ただ未来という光を手に入れた男たちの、穏やかで誇り高い笑い声だけが、いつまでも響いていた。

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