無実の犯罪
Omote裏misatO
回想1 空白の供述
今でも、深夜の静寂はあまり好きじゃない。
目を閉じると、あの取調室の嫌な静けさが蘇ってくるからだ。
古びた蛍光灯の細い唸りと、よどんだ空気をかき回す換気扇の低い回転音。それらが重なり合って、室内の沈黙をカミソリのように鋭く尖らせていた。
机の向こうに座っていた男の顔を、私は今も鮮明に思い出せる。
三十代後半。どこにでもいる、目立たない会社員だった。
手錠を外された男は、組んだ膝の上に、行儀よく手を置いていた。逃げる様子もなければ、罪を隠そうとする虚勢もない。ただ、**「そこに心が不在である」**かのような、不自然なほど凪いだ空気を纏っていた。
「――もう一度、確認させてくれ」
私は、カセットレコーダーの赤いランプが、心臓の鼓動のように点滅しているのを確認して切り出した。その時の自分の声が、妙に上ずっていたのを覚えている。
「あなたは、被害者の腹部をナイフで刺した。その事実に、間違いはありませんね」
男は小さく、首を縦に振った。
「はい。それは……証拠の映像で見ました」
「映像?」
「ええ。防犯カメラの。あと、現場の写真も」
まるで、昨日見た映画のあらすじを淡々と述べるような口調だった。私は奥歯を噛み締め、言葉を慎重に選んだ。目の前の男が、怪物なのか、それとも底知れない嘘つきなのかを見極めるために。
「……自分がやった、という実感はあるのか」
男は少し考える仕草をした。眉を寄せ、視線を机の古傷に落とす。
「……ありません」
その答えを聴くのは、その日だけで何度目だっただろうか。
「覚えていないんだな?」
「はい」
「どこからだ。記憶が途切れているのは」
「……枕元で、ラジオを聴いていたところまでは、覚えています」
私のペンが、紙の上で止まった。今思えば、それがすべての始まりだった。
「ラジオ?」
「ええ。いつもの番組です。寝る前に、小さな音でつけっぱなしにして」
演技特有の過剰さが一切ない、あまりに平熱な語り口。それが刑事としての私の本能を、ざわざわと波立たせた。
「番組名は?」
「『ナイト・ライン』」
私はメモを走らせながら、視線だけを鋭く上げた。
「何を話していた。内容を覚えているか」
男はゆっくりと、左右に首を振った。
「内容は、全く。ただ……あの『声』だけは、覚えています」
「どんな声だ」
男は一瞬、呼吸を止めた。その瞳に、一筋の恐怖がよぎったのを私は見逃さなかった。
「……凪(なぎ)のような。とても、静かな声でした」
「静か?」
「はい。音量が小さいとかじゃなくて……聴いていると、頭の中の雑音が消えて、真っ白になるような。そんな感じです」
私は無意識に、パイプ椅子の背もたれに深く体重を預けた。
背中を冷たい汗が伝うのを感じた。
「それから、どうした」
「……それから先は、もう。何も」
「気づいた時には?」
「知らない路地に立っていました。手に、温かいものがついていて。足元に、人が倒れていました」
男の声は震えなかった。後悔に身をよじるわけでも、狂気に笑うわけでもない。
私は思った。この男は、反省していないのではない。裁かれるための「記憶」という重荷を、最初から持っていないのだ。
「動機は何だ」
「分かりません」
「被害者との接点は」
「ありません」
「殺意は」
「覚えていません」
私は、肺に溜まった重苦しい空気を一気に吐き出した。
これで、三件目だった。
共通する供述。共通する「空白」。そして、共通する「声」の残響。
「……自分が、怖くないのか」
刑事としての領分を超えて、言葉が漏れた。
男はわずかに驚いた顔をしたが、すぐに深い悲しみを湛えた瞳を私に向けた。
「怖いです」
「何が」
「また、自分じゃない何かが、私の体を使ってしまうんじゃないかって」
その言葉に、嘘は混じっていなかった。私の勘が、それが真実だと告げていた。だからこそ、私は震えたのだ。
「だから……せめて、覚えていたかった」
男は消え入りそうな声で、呟いた。
「覚えていれば、自分の意志で、止められたかもしれないから」
取り調べ室に、雪のように重い沈黙が降り積もった。
私は、手元の捜査資料に目を落とした。犯行推定時刻、午前二時十七分。
備考欄の端に、走り書きのメモがあった。
――犯行直前、ラジオ聴取の形跡あり。
私は、握りしめていたペンを置いた。
今振り返れば、あの瞬間、私はすでに気づいていたのかもしれない。
これは単なる偶然の連鎖などではない。深夜の電波に乗って届く「静かな声」が、平穏な人間を怪物に変えるための、精密な装置であることに。
チチッ、と。
天井の蛍光灯が、断末魔のように一度だけ瞬いて、私たちは一瞬の闇に包まれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます