辺境に追放された無能は白紙の本で無双する。

Dr.cat

第1話

王立冒険者学園の大講堂は、今日という日のために最高の装飾が施されていた。天井から吊るされた無数のクリスタルシャンデリアが、午後の陽光を受けて七色の光を放っている。壁という壁には歴代の偉大な冒険者たちの肖像画が掲げられ、彼らもまた、新たな冒険者の誕生を祝福するかのように微笑んでいた。


卒業式——それは学園生活の集大成であり、同時に冒険者としての人生の始まりを告げる、最も重要な儀式である。


「次、エリック・フォン・バルトハイム!」


司祭の声が講堂に響き渡る。金髪を後ろで束ねた青年が、自信に満ちた足取りで祭壇へと歩いていく。学園一の秀才として名高い彼の周りには、クラスメイトたちの羨望の眼差しが注がれていた。


エリックが祭壇の前で跪くと、司祭が両手を掲げた。その瞬間、彼の周囲に眩い光が満ち始める。光は渦を巻き、やがてエリックの右手に収束していった。


光が消えた時、そこには見事な剣が握られていた。刀身は銀色に輝き、柄には青い宝石が埋め込まれている。刃からは微かに雷光が走り、空気を震わせていた。


「神雷剣『ミョルニル』!」


司祭が宣言すると、講堂は歓声と拍手に包まれた。エリックは剣を掲げ、観客席に向かって恭しく一礼する。彼の両親——バルトハイム侯爵夫妻は、誇らしげに息子を見つめていた。


次々と生徒たちの名前が呼ばれていく。


「アリシア・レイフィールド!」


長い黒髪の少女が祭壇へ向かう。彼女の手に現れたのは、透明な水晶のような槍だった。槍身は常に形を変え、まるで水が流れているかのように見える。


「浄化の槍『アクア・レギナ』!」


「マルコ・ドラグノフ!」


筋骨隆々とした青年の手に現れたのは、巨大な戦斧。刃は炎を纏い、その熱気だけで周囲の空気が歪んでいた。


「業火の斧『インフェルノ』!」


神器——それは神々が選ばれし冒険者に授ける、特別な力を宿した武器である。強力な神器を授かった者は、それだけで名声と富が約束される。貴族の家系であれば家の地位が上がり、平民であっても一夜にして貴族に列せられることもある。


だからこそ、この瞬間は誰にとっても人生最大の分岐点なのだ。


そして——


「カイル・アッシュフォード!」


司祭の声が響いた瞬間、講堂の空気が微かに変わった気がした。あちこちから聞こえるざわめき。それは期待の声というよりも、好奇の目、あるいは憐れみの視線だった。


カイルは深呼吸をして、祭壇へと歩き出した。


アッシュフォード家——王国五大貴族の一つに数えられる名門中の名門。代々優秀な冒険者を輩出し、現当主であるカイルの父、ロドリック・アッシュフォードは「紅蓮の公爵」の異名で知られる伝説的な冒険者だった。


しかしカイルは、その輝かしい血筋に似合わぬ存在だった。


剣術の成績は下位層。魔法の才能も平均以下。体力測定でも目立った記録はなし。唯一得意だったのは座学——歴史や魔物学、植物学といった学問の分野だけだった。それも冒険者としての実力とは直接関係のない、「役に立たない知識」と揶揄される類のものだ。


「落ちこぼれ」


「名家の恥」


「アッシュフォードの汚点」


そんな陰口を、カイルは何度も耳にしてきた。


祭壇の前で跪き、カイルは目を閉じた。心臓が激しく鼓動している。手のひらには汗が滲んでいた。


(頼む……せめて、まともな神器を……)


司祭が詠唱を始める。カイルの周りに光が満ち始めた。それはエリックたちの時よりも弱く、淡い光だった。


光が収束していく。カイルの右手に、何かが現れる感触。


重い。


いや、重量ではない。ずっしりとした存在感のようなものだった。


光が完全に消えた。


カイルはゆっくりと目を開け、自分の手元を見下ろした。


そこにあったのは——本だった。


剣でも、槍でも、斧でもない。ただの本。


厚さは10センチほどあるだろうか。表紙は真っ白で、何の装飾もない。タイトルも、著者名も、何も書かれていない。革装丁のようだが、どこか不思議な手触りだった。まるで生き物の皮膚のような、微かな温もりを感じる。


カイルは呆然とそれを見つめた。


司祭もまた、困惑した表情で本を凝視している。数秒の沈黙。そして——


「えっと……神器……『白紙の書』……?」


司祭の声は、明らかに自信がなかった。


瞬間、講堂が爆笑に包まれた。


「本だってよ!」


「神器が本!?」


「武器でも防具でもなくて本!」


「しかも白紙!」


「アッシュフォード家、終わったな」


「これはひどい」


笑い声が講堂中に響き渡る。カイルは顔を上げることができなかった。頬が熱い。視界が滲んでいく。


観客席に目をやると、そこには両親の姿があった。


父、ロドリックは腕を組み、石像のように無表情だった。その横顔には、怒りとも失望とも取れる感情が浮かんでいる。


母、イザベラは扇子で顔を隠していたが、その肩が小刻みに震えているのが見えた。恥ずかしさに耐えているのだろう。


そして周囲にいるクラスメイトたち——エリックは憐れみの目で、アリシアは困惑した表情で、マルコは隠そうともせず嘲笑していた。


「なんだあれ、本当に神器か?」


「白紙の本って、ただのノートじゃん」


「神様もジョークがお好きなようで」


耳に痛い言葉が次々と飛んでくる。


カイルは本を胸に抱き、逃げるように祭壇を降りた。



卒業式が終わった後、カイルは執務室に呼び出された。


重厚な扉を開けると、そこには父と母が待っていた。部屋の中は静寂に包まれている。窓から差し込む夕日だけが、この場の緊張を際立たせていた。


「父上、母上……」


カイルが口を開こうとした瞬間、父の声が響いた。


「黙れ」


その一言で、カイルの言葉は喉の奥に引っ込んだ。


ロドリックは息子を見下ろした。その目には、何の感情も見えない。


「恥を晒してくれたな、カイル」


「父上、しかし……」


「言い訳は聞きたくない」


父は立ち上がり、窓の外を見た。


「我がアッシュフォード家は、三百年の歴史を持つ。代々、優秀な冒険者を輩出し、王国の守護者として君臨してきた。お前の祖父は『雷槌』の二つ名で恐れられ、曽祖父は『魔剣士』として歴史に名を刻んだ」


窓の外には、王都の街並みが広がっている。夕日に照らされた街は美しく、そして遠かった。


「そしてこの私も、『紅蓮の公爵』として多くの功績を残してきた。すべては、この家の名誉のため。この家の伝統を守るため」


父は振り返った。その目は、冷たい刃のようだった。


「だが、お前は何だ? 神器が白紙の本? そんな前例は歴史上一度もない。冒険者として何の役にも立たない、ただの紙束ではないか」


「でも、これも神器です。何か意味があるはず……」


「意味?」


父は鼻で笑った。


「意味があるとすれば、神々がお前を——いや、我が家を嘲笑しているということだ。お前の存在そのものが、アッシュフォード家の恥だ」


「ロドリック……」


母が夫を止めようとしたが、父は手を上げてそれを制した。


「イザベラ、口を出すな。これは家のためだ」


父は執務机の上にある羊皮紙を取り、カイルの前に放り投げた。


「これは勘当状だ。今日をもって、お前はアッシュフォード家の人間ではない。家名を名乗ることも、家の財産を使うことも、二度とここに戻ることも許さん」


カイルは膝から崩れ落ちそうになった。


「そんな……父上、お願いします。せめてもう少し時間を……」


「時間? お前には十八年も与えた。それでこの結果だ。これ以上、お前に時間を費やす価値はない」


父は執務机の引き出しから、一枚の地図を取り出した。


「明日の朝、お前を『嘆きの原生林』へ送る。そこでお前の好きなように生きるがいい。本でも読んでいればいいだろう」


「嘆きの原生林……?」


カイルは息を呑んだ。


嘆きの原生林——王都から百キロ以上離れた、最も危険な森の一つ。魔物が跋扈し、毒を持つ植物が生い茂り、まともな冒険者でも単独での探索は命懸けとされる場所。


それは事実上の、死刑宣告だった。


「父上、それは……」


「嫌なら、今すぐここで首を吊れ。どちらでも構わん」


父の声には、一片の慈悲もなかった。


カイルは母を見た。助けを求めるように。


しかし母は、顔を背けた。


「イザベラ様……」


「……カイル、ごめんなさい」


母の声は震えていたが、それ以上は何も言わなかった。


カイルは理解した。


ああ、そうか。


自分は、本当に独りなんだ。



翌朝、カイルは最小限の荷物だけを持たされ、馬車に乗せられた。


荷物といっても、着替えが二着と、水筒一つ。それに、例の白紙の本。食料も、武器も、地図すらも与えられなかった。


馬車には、屈強な兵士が二人同乗していた。彼らは一言も発せず、ただカイルを監視している。まるで囚人を護送するかのように。


御者台には、アッシュフォード家に長年仕える老齢の馬丁が座っていた。出発の際、彼は一度だけカイルと目を合わせ、申し訳なさそうに首を横に振った。それだけが、カイルに向けられた唯一の同情だった。


馬車は王都の門を出た。


石畳の道から、やがて土の道へ。


街道沿いには、時折村や町が見えた。そこで暮らす人々の姿。畑を耕す農夫。井戸端で洗濯をする女性たち。道端で遊ぶ子供たち。


どれも、カイルにはもう手の届かない、日常の風景だった。


日が高く昇る頃、馬車は街道を外れ、獣道のような細い道に入った。木々が鬱蒼と茂り始め、陽の光が届きにくくなっていく。


空気が変わった。湿っぽく、重苦しい。時折、遠くから獣の遠吠えが聞こえる。


嘆きの原生林が、近づいていた。


カイルは膝の上に置いた白紙の本を見つめた。


何度開いても、中身は真っ白だった。文字も、絵も、何も書かれていない。ただ白いだけ。


(これが神器……? 本当に?)


カイルは本の表紙を撫でた。不思議な温もりがある。まるで生きているかのような。


(何のために、こんなものを授かったんだ……)


答えは返ってこない。


馬車は進み続けた。


やがて、巨大な樹木が立ち並ぶ場所に到着した。一本一本が、城の塔ほどもある高さだ。幹は太く、根は地面を這うように伸びている。木々の間には蔦が絡みつき、まるで巨大な蜘蛛の巣のようだった。


地面には枯れ葉が厚く積もり、踏みしめるたびにカサカサと音を立てる。苔むした石や岩があちこちに転がっていた。


そして——不気味なほどの静寂。


鳥の鳴き声も、虫の羽音も聞こえない。まるで森全体が息を潜めているかのようだった。


馬車が止まった。


「着いたぞ。降りろ」


兵士の一人が、扉を開けながら言った。


カイルはゆっくりと立ち上がり、馬車から降りようとした——その瞬間。


「降りろと言っている!」


背中を、強烈な蹴りが襲った。


「うわっ!」


カイルの体は宙を舞い、馬車から投げ出された。地面に叩きつけられ、そのまま転がる。背中を、肩を、頭を、次々と地面が打ち付けた。


ゴロゴロと転がり続け、ついに大きな石に激突して止まった。


「ぐあっ……!」


左腕に、激痛が走った。


石の角に、ちょうど肘の少し上をぶつけたのだ。骨が軋む音が聞こえた気がした。腕を動かそうとすると、激痛が走る。


折れた。確実に。


白紙の本も、手から離れて地面に落ちていた。


「ッ……!」


カイルは歯を食いしばり、右手で左腕を押さえた。痛みで視界が歪む。


馬車の方を見上げると、父と母が窓からこちらを見下ろしていた。


父は相変わらず無表情。母は——一瞬だけ、目を逸らした。


それだけだった。


御者が手綱を引き、馬車が方向転換する。


そして馬車は、カイルを置き去りにして、来た道を戻っていった。


蹄の音が遠ざかっていく。


やがて、完全な静寂が訪れた。


カイルは地面に座り込んだまま、馬車が消えた方向を見つめ続けた。


(……本当に、行ってしまった)


左腕が脈打つように痛む。動かせば、激痛が走る。服の上からでも、腫れ上がっているのが分かった。


カイルは深呼吸をした。


泣いても、叫んでも、誰も助けに来ない。


ここは嘆きの原生林。王都から百キロ以上離れた、死の森。


夜になれば魔物が現れるだろう。このまま何もしなければ、明日の朝を迎えることすらできないかもしれない。


(……落ち着け。まず、何をすべきか考えるんだ)


カイルは周囲を見回した。


巨大な樹木。蔦。枯れ葉。石。岩。


そして——すでに太陽が西に傾き始めていた。空は薄い橙色に染まっている。


残された時間は、長くない。


カイルは痛む左腕を抱えながら、よろよろと立ち上がった。まず、落ちた本を拾い上げる。ページが少し汚れていたが、破れてはいなかった。


(武器……武器が必要だ)


しかし、武器などない。剣も、槍も、何もない。


あるのは——木と、石と、蔦だけ。


(……作るしかない、か)


カイルは学園で学んだことを思い出そうとした。サバイバル技術の授業。ほとんどの生徒が退屈そうに聞き流していた内容だが、カイルは真面目にノートを取っていた。


石器の作り方。原始的な道具の製作法。


(確か……石を別の硬い石で打ち付けて、鋭利な刃を作る……)


カイルは地面に転がっている石を物色し始めた。右手だけでの作業は困難だったが、やるしかない。


手頃な大きさの石を見つけ、それを別の大きな岩に打ち付ける。


カンッ。


カンッ。


カンッ。


石が少しずつ欠けていく。しかし、思うような形にならない。何度も何度も打ち付けた。


指が痛い。爪が割れた。それでも続けた。


やがて、ある程度鋭利になった石ができあがった。完璧ではないが、これで十分だろう。


次に、カイルは木の枝を探した。倒木の近くに、ちょうど良い長さの枝が落ちていた。太さも手頃だ。


そして蔦を切り取る。鋭利な石で何度も擦り切った。


石と枝と蔦——これで斧を作る。


カイルは枝の先端を、石で削って平らにした。そこに石を当て、蔦でぐるぐると固く縛っていく。左腕が使えないため、時折足も使いながらの作業だった。


蔦を締めるたびに、左腕が痛んで顔が歪む。それでも手を止めなかった。


何度も巻き直し、何度も結び目を作り直し——


ついに、完成した。


「……できた」


手の中にあるのは、原始的な石斧だった。


刃は粗く、柄もいびつ。まともな武器とは言えない代物だ。しかし、ないよりはマシだろう。


カイルは石斧を握りしめた。これが、今の自分を守る唯一の武器。


空を見上げると、太陽がさらに傾いていた。森の木々が作る影が、長く伸びている。


夜が、近づいていた。


カイルは深呼吸をし、それから地面に落ちていた白紙の本を拾い上げた。


(せめて、これが何なのか……)


カイルは本を開いた。


やはり真っ白——


いや。


(……ん?)


一ページ目。


そこに、何か文字のようなものが浮かび上がっていた。


カイルは目を凝らした。確かに、インクで書かれたような黒い文字だ。しかし、ぼやけていてよく見えない。


もっと近づけて見ようと、顔を本に近づけた——その瞬間。


文字が、動いた。


カイルは息を呑んだ。


ページの上で、文字がひとりでに綴られていく。まるで見えない手が、ペンで書いているかのように。


一文字、また一文字。


滑らかに、淀みなく。


カイルはただ、その光景を見つめることしかできなかった。


やがて文字は書き終わり、ページが完成した。


そこには——


【簡易石斧】


[説明]

石、木の枝、蔦を用いて作成された原始的な斧。刃部分は打製石器の技法で作られており、鋭利さには欠けるが、簡単な伐採や護身には使用可能。耐久性は低く、強い衝撃で破損する可能性がある。


[作者] カイル・アッシュフォード


[制作日時] 神暦1247年9月15日 午後5時23分


[サイズ] 全長:52cm / 刃部:長さ8cm、幅6cm / 柄:直径3cm


[使用素材]

- 玄武岩(刃部)

- オークの枝(柄)

- 森林蔦(結束材)


[重量] 約580g


[推定耐久度] 15/15


そして——ページの中央には、まるで職人が描いたかのような精密な挿絵があった。


石斧の図。


正面から、横から、上から。それぞれの角度から見た姿が、細部に至るまで正確に描かれている。石の欠けた部分、蔦の巻き方、柄の木目——すべてが、今カイルが手に持っている斧と完全に一致していた。


カイルは手の中の斧と、図鑑の絵を交互に見比べた。


同じだ。


完全に、同じだ。


(これは……)


カイルの心臓が高鳴った。


これが、神器の力なのか?


自分が作ったものを、自動的に記録する?


ならば——


カイルは次のページをめくった。


やはり白紙。


では、何か別のものを作れば?


しかし今は時間がない。日が暮れようとしている。


カイルは本を閉じ、石斧を握りしめた。


(まだよくわからないけど……もしかしたら、これが自分を助けてくれるかもしれない)


わずかな希望が、胸に灯った。


カイルは周囲を見回した。このままここにいるのは危険だ。何か、身を守れる場所を見つけなければ。


夕暮れの森は、刻一刻と暗くなっていく。


木々の間から、何かが動く気配がした。


カイルは石斧を構え、警戒しながら歩き出した。


嘆きの原生林での、最初の夜が始まろうとしていた。

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