第9話
母の顔を見るのが何より怖かった。
何か変わってしまったのではないかと不安で、後ろめたくて。家に帰る前に、何度も駅のトイレにある鏡で確認して来た。
東京郊外にある市営団地、私が住む棟の前に来ると、自分のいるべき場所を思い知らされた。ほんの少し前までいた場所は、現実じゃない。私の生きている世界は、母と弟と慎ましやかに生きているこの場所だ。
重い足で最上階まで階段で上がる。おそるおそる開けた錆びついた鉄のドアが、いつもより重く感じた。
「今日は遅かったね。バイトのない日でしょ? 連絡もなく遅いのなんて初めてだったから心配したよ」
心の準備も出来ないうちに現れた母に、ただただ心臓が激しく騒ぐ。
これまでずっと、父親がいない分母と力を合わせて生きて来た。そんな母に嘘なんて吐いたこともない。
「ごめんね。大学の友達が体調崩しちゃって。落ち着くまで様子を見てたの。その子、一人暮らししてるから心配で」
これが、初めて母についた嘘だ。
「それなら仕方ないね。でも、連絡くらいはしてね」
「うん。もう遅いからお風呂入って寝るね」
逃げるように風呂場へと駆け込み、すぐに熱いシャワーを頭から浴びた。
初めて誰かに抱かれた。見た目は何も変わらないのに、確実に私の中の何かが変わってしまった。身体にまだ残る感触が私に現実だと訴えて来る。
涙が後から後から溢れて次々に蘇って来る。あの人の腕に抱かれている間は、こんな私でも女だった。そして、間違いなく幸せだって思えた。
でも、もう終わったこと。あの人と私の間には何もない。この胸に残る甘い痛みも、肌に残るあの人の熱も、涙も全部このシャワーで洗い流す。
また、明日から元の私に戻るのだ。
翌日、いつもと変わらず授業に出席した。
あのパーティーに私を連れて行ったユリさんを遠目に見た時、胸が軋んだ。結局私も、彼女と同じ立場の人間になってしまったのだ。何もかもを心から追い出して、ただ前だけを見て足早に正門へと急ぐ。
正門にたどり着いたところで、息が止まる。
正門脇にあの人が立っていた。あまりの驚きで立ち竦む。鋭いあの目が立ち尽くす私の存在を認めると、すぐにこちらに向かって来た。私は硬直したまま動けない。
「なんで何も言わずに帰ったりした? 一体、何のつもりだ!」
私の正面に立つと、怒りに満ちた目が私を射抜く。
「……どうして?」
やっと絞り出した声は、情けないほどに弱々しい。
「どうしてだって? おまえはこれっきりにしようと思ってたのか?」
声を荒げる彼をただ呆然と見上げた。
「勝手に消えるなんて、許さない」
どうして。目的を果たせば、もう何の意味も持たない存在のはずでしょう――?
全部分かっていて、この人に抱かれたのだ。ユリさんとこの人のやり取りだって、ちゃんと覚えている。あのパーティーで、逃げるように飛び出しても、耳に届いた声を全部理解している。
もう泣かないと決めたのに、目の前に突然現れた彼の顔を見たら、そんな決意なんてどこかに消えてしまったみたいに涙が溢れた。涙と同じように、抑えつけた想いが溢れ出す。
涙を拭おうとした瞬間に、勢いよく抱き寄せられた。その時、自分のものではない心臓の音が耳に届いて。押し潰されそうなほどの強さで苦しいのに、苦しいのと同じだけ安堵する。
それも束の間、すぐにここがどこかを思い出した。
「あ、あの、ここ、大学の前ですので……っ」
「あ、ああ」
その胸に手を置いて離れた。急に我に返れば、周囲からの向けられる視線が痛い。それに耐えられなくて、俯いてしまう。
「もう、授業終わったのか?」
身体を離したはずなのに、私の腕は彼の手によって掴まれていた。
「は、はい」
「じゃあ、これから時間――」
私の顔を見ようとする彼の視線から逃れるように、その声も遮った。
「すみません! このあとバイトで……」
もしかしたら、一緒に過ごそうと言ってくれるつもりだったのだろうか。そう思い至ると、急にそれが酷く惜しいことのよう思える。
「そうだったな。おまえ、いつもバイトしてたもんな」
「で、でも! バイトまで2時間くらいなら時間あります!」
前のめりになって叫んでいた。
――って、私、何言ってるんだろう。
「いえ、いいんです。すみません、そんな隙間時間みたなもの……」
「いや、いい。その時間を俺にくれ」
俯いていた顔を上げると、そこにはぎこちなく微笑む彼の顔があった。
ひとたび何かを考えてしまえば、きっと躊躇ってしまう。だから、私を掴んでくれている彼の手のひらのことだけを考えた。
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