いおがみさんの話
彩久津 紋
いおがみさんの話
あれは良くないモノだ、と本能が告げていた。
私の家は江戸時代から続く造り酒屋で、私は次男坊として生まれた。近所には分家があり、そちらは廻船問屋を営んでいた。主な積み荷はうちの酒、瀬戸内の港を出て東京へ行き、別の荷を積み、帰ってくるのだ。船主である叔父は骨董品や珍品の蒐集家でもあり、東京へ行ってはよく妙な物を買い込んでいた。
あれは数えで八つの時だった。叔父が人魚を手に入れたと聞き、見たいとごねて蔵に案内してもらったのだ。母屋に一番近い蔵は所謂座敷蔵というもので、外見は蔵だが中は畳敷きの座敷だった。叔父の家では離れのような扱いだった。
蔵の中は板貼りの廊下が座敷をコの字に囲んでおり、奇妙な調度品や骨董品が所狭しと並べられていた。
蔵の最奥。タイル貼りの浴槽に向かって叔父が声をかける。
「いお。出てきて挨拶をしないか。」
浴槽から顔を覗かせたのは、一人の男。
「何だまた客人か……って子供じゃないか。この間の坊っちゃんの弟か?」
明かりの乏しい蔵の中だからだろうか、男の肌は死人のように白く見えた。肌の色はまだ良い。何よりも彼の目が! 彼の瞳孔は山羊のように横に広がっていたのだ。下に目をやれば、足があるべきところにはぬらりとした大魚の尾が見えた。
叔父は得意げに胸を反らし、「珍しいだろう。本物の人魚だ。」と言ったが、私は人魚を見たいと言ったことを後悔していた。こちらを覗き込むように見つめる人魚の前で俯いて震えるばかりだった。
人魚はいつからか「いおがみさん」と家の者から呼ばれるようになっていた。「いお」という名の異形だから「いおがみさん」。異形への恐れや皮肉が込められた呼び名を、彼自身はどう思っていたのだろうか。
彼と再会したのは、太陽が輝き、雲一つない空に蝉時雨が降りそそぐ夏の日だった。
穏やかで普段何かを強く主張することもない三つ歳上の従兄が、やたら熱心に私をいおがみさんのいる座敷蔵へと誘ったのだ。
「宗ちゃん――私のことだ――もおいでよ。」
いおがみさんも怖かったのだが、それよりも従兄のギラギラと熱を帯びた瞳が怖くて、私は「いい」と遠慮した。だが従兄は食い下がる。「優しいよ。大人しいし、言葉が分かるから噛み付いて襲ってきたりしないよ。」と、化け物をまるで子犬のように言う。
その口ぶりがおかしくて、私はつい承諾してしまったのだった。
「
マツ子の刺すような視線から逃げるように、私達は蔵へと向かった。
蔵の中は薄暗く、夏の盛りにも関わらず、少しひんやりしていた。
「いお、起きてる?」
従兄の服の裾を掴んだまま、水音がした方向を見ると、ぬらりとした影が。
「やあ、修爾。……と後ろにいるのは怖がりのちびだな。」
いおがみさんは一度しか会ったことがないはずの私のことを覚えていた。
「ねえ、何かお話しして。」と修ちゃんが言うと彼は破顔した。
「ああ、今日はどんな話をしようか。」
いおがみさんの話は面白く、いつも気になるところで「また今度な。」と中断してしまうため、私は夏の間じゅう、蔵座敷へ通うことになった。
従兄はどこかの海の中にあったという人魚の里の話が。私は香具師との珍道中の話が好きだった。いおがみさんは叔父の不気味な蒐集品を大半が偽物だと教えてくれた。
あの頃、私も従兄も彼のことを「『いおがみさん』という名の、蔵に住んでいる訳ありの叔父」だと認識していたのではないだろうか。私の子どもの時分にはまだ座敷牢というものがあったのだから。
私と従兄は夏が過ぎても、いおがみさんの所に通い続けた。異形の姿を見慣れても、背が伸び、声が低くなり、いおがみさんに軽口をたたけるようになっても、私は彼が怖かった。あの嵐の前の夕空のような、心をざわつかせる紫色の目が。山羊のように横に広がった瞳孔が。時折こちらを観察しているように思えたのだ。
あれは中学に上がる前だっただろうか。珍しく一人で座敷蔵に行った日。いおがみさんは手土産の酒をちびりちびりと飲みながら、神妙な顔で聞いた。
「宗二郎。お前さんはまだ俺が怖いかい?」と。
強がってもよかったのだが、あの目に見つめられると嘘がつけなくなるのだ。
「怖い。嫌いじゃないけど。貴方は油断ならない目をしている。入れ込んだが最後、ろくな目に遭わなさそうだ。」彼はきょとんとした後、笑いだした。
「あっはっは。酷いなあ。まあ、お前さんや修爾に対して、悪意を持ってどうこうしようとは思っていないから安心してくれ。」
「なあ、宗二郎。」といおがみさんは続けた。
「お前さんはちょうどいいな。この家の人たちも皆、お前さんみたいだったら良かったのに。」
進学後は学業が忙しく、本家に顔を出すのも盆正月とたまの休みくらいで、いおがみさんの所へ行くことはほぼなくなった。
ある秋の終わり頃、叔父が急死したため、高校へ進学していた従兄は呼び戻され、家業を継いだ。従兄は末子ではあったが、長男なので当然のことだろうと思っていた。しかし、内情は違ったようだ。
家業の手伝いをしていたマツ子が異議を唱えたのだ。彼女や彼女につく従業員との対立、そして鉄道が輸送の主力となり廻船業が廃れ始めたこともあり、従兄は会うたびに窶れていった。
用事で本家を訪れた時、具合の悪そうな従兄を気遣ったところ、何か気に障ることを言ってしまったようで、「お前まで俺のことを馬鹿にするのか。化け物頼りの腑抜けだと。」と怒鳴られてしまった。
大きな足音を立てて去っていく従兄に反論することもできず、呆然としていると、ぽん、と肩に手が置かれた。振り向くとマツ子姉さんが立っていた。彼女は従兄が去っていった方を見やると眉根を寄せた。
「宗二郎さん……宗ちゃん、気にしないでね。今の修爾は正気じゃないの。……いおがみさんに憑かれてしまったのかしらね。」
従兄の様子が心配で、後日また訪ねたが、彼は自室に引きこもっており、会うことはできなかった。諦めて帰ろうとした時、すすり泣くような声が聞こえてきた。いけないと思いつつも聞き耳をたててしまった。固く閉ざされた扉の向こうから聞こえてきたのは……
『イブカ、すまない。俺を許してくれ。イブカ……』
従兄は繰り返し繰り返し、誰かに謝罪していた。
「イブカ」というのが、いおがみさんの名前だと知るのは、もう少し後の話になる。
それから間もなく、寮に戻った私の元に電報が届いた。
従兄が死んだ、と。
座敷蔵で首を括ったのだそうだ。
葬儀後、いおがみさんはどうしているだろうと座敷蔵へ向かったが、そこには主のいない干からびた浴槽があるだけだった。
聞いた話によると、従兄は数ヶ月前にいおがみさんをどこかの研究所へ売り払ったそうだ。それから塞ぎがちになり、とうとう首を括ってしまった、と。「いおがみさんの祟りだ」と皆が言っていた。
廻船業はマツ子姉さんが婿をとって継ぐことになった。
従兄は本当にいおがみさんに魅入られて命を落としたのだろうか。
私もいおがみさんに魅入られていたら、従兄と同じ道をたどったのだろうか。
夏が来ると思い出す。少年の時分。照りつける太陽と蝉時雨。ひんやりとした蔵の中。黴臭い空気と水の匂い。禍々しい異形の目と、それに似合わぬ穏やかな低い声を。
いおがみさんの話 彩久津 紋 @schka
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