月満ちて 滴り落ちる銀の雫を

紫陽花

月満ちて 滴り落ちる銀の雫を

 ひと月前のある夜、僕は空を眺めていた。

一面に広がる漆黒から注ぐ黄金の光。熱を感じさせない輪郭は円らかで、淡い灯りが目に沁みる。不思議と穏やかな気持ちになれて僕は、ここより遥か遠いどこかで咆哮をあげる、豺狼の姿が脳裏に焼き付く感覚を捉えた。彼も月を見上げている。僕と同じに。ただ僕は今比較的穏やかで、彼は空一面に慟哭を轟かせている。しかしその差は些細なことのように思える。満月は見る人の心を露わにする。悲しみに暮れる人は次から次へとあふれる涙が枯れるまで泣き、夜が明ける前に涙が枯れたなら、疲れ切った体を引きずりながらでも、朝になる前にコクーン《自室》に戻る。朝日が世界を照らすまでの短い間に、痩せた胸で心を抱き、努めて静かに呼吸する。誰にもその存在を、気付かれないように。

燦燦と輝くソレイユ《太陽》が夜の扉をノックするのに、それでも闇に散らばる星々が奏でる、美しい音色を聞いていたいと願う人には、愛した全てのものと永久の別れが訪れる。奇妙なもので、下界に思い残すことはないと思い做していた人も、それを迎えた刹那、激しく狼狽えるのだそうだ。生と死を分かつもの。それは案外、安易であるのかも知れない。人間が考える生、或いは死は、尊厳が守られ人が人であることを最期の刻まで、忘れてはならないことであるかのように思いがちだが、そうややこしいことではなく。


 ひと月前のあの夜、僕は月に問うてみた。

僕は何処へ行けば幸せになれる?安息の地を教えてほしい。そんな場所がもしあるなら僕は全てを捨てて、其処へ行くからと。

月は答えた。そこが君の安住の地だよと。僕は愕然とした。嘘だ、そんなはずはない。

現に僕はこの日常に途轍もない苦しさを覚えている。毎日起きてから夜眠るまでの間、辛さを感じない日は1日たりともない。いつも何かに傷付き怯え、僕はそんな気持ちを誰にも悟られないように必死に虚勢を張る。それが功を奏するのか僕に近付く人は誰もいない。そんな現実に僕は更に傷付けられる。みんなあんなに楽しそうに過ごしているのに。人と話しながら笑っているが、彼らはどうやってその術を覚えたのだ。僕には不思議に感ぜられることがあまりに多すぎる。そんな気持ちを月に打ち明けてみたのだが。

 月の答えは簡潔で明確だった。信じられないという気持ちは未だ変わりないが、少しずつ冷静さを取り戻しているように思う。月の囁きを嘘だと、何かの間違いだと、抗う気持ちが湧いたのはきっと、僕に諦めるつもりがないのだと感じたからね。まだ、確証はないけれど。


 今宵の月も綺麗だ。見つめるうち、すぅっと吸い込まれるんじゃないかと錯覚するほどに。漆黒の空に美しく輝く満ち足りぬ月が満ちるまで、あと数日。僕は比較的穏やかに空を仰いでいる。日の差す間、感じた辛さや苦しさを月明かりが癒してくれる、そんな感覚に浸りたくてね。誤解だって構やしない。そんなことはどうだっていい。僕が間違いなく今日という1日を過ごし夜を迎えられた。このことがとても重要なのだから。

月は僕の心に寄り添ってくれる。萎んでしまった僕の心から悲しみに似た雫が落ちる。まるで月が纏う露のように。滴り落ちる銀の雫が枯れるまで、僕はここにいる。夜、月が見える場所に上がってね。

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月満ちて 滴り落ちる銀の雫を 紫陽花 @umemomosakura333

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