聖女のスカートの中には、祈りよりも重い鉄がある II ~聖女は「未知」を歩かない~

すまげんちゃんねる

第1話 袋小路のティータイム

 深い霧が、原生林の輪郭をあやふやに溶かしていた。

 視界は不良。通信感度は最悪。

 そして何より不快なのは、この森に充満する粘り着くような湿気だ。


(……やれやれ。ドレスが湿気で張り付いて動きにくい。早く帰ってシャワーを浴びたいもんだ)


 俺こと元ヴォルガ帝国軍遊撃隊長ヴォルフガング・シュタイン(享年四十八)は、この国で一番尊い『第1聖女』セレスティアの肉体の中で毒づいた。

 この聖女の肉体はただでさえ環境の変化に敏感すぎる。本当なら安酒をあおって寝ていたいところだが、俺の「愛すべき部下たち」がそれを許してくれない。


「ひぃ……っ。せ、聖女様……」


 俺の右袖をぎゅうぎゅうと掴んでいるのは、王国最強の騎士団長リーゼロッテだ。

 物理攻撃ならドラゴン相手でも一歩も引かない猛者だが、この女はオカルトに対して致命的に弱い。

 顔面蒼白で俺に張り付き、硬い甲冑越しにガタガタと震えを伝えてくる。もはや護衛ではなくただの巨大な重りだ。


「……クリア。前方、反応なし」


 霧の中から影のように音もなくセツナが現れる。

 相変わらずの隠密スキルだ。だが今日のセツナはどこか落ち着きがない。時折、俺の背後に回り込み、ドレスの裾を掴んで匂いを確かめるように鼻をひくつかせている。彼女の野生の勘が、姿なき敵に怯えている証拠だ。


「あらあら。お二方とも、だらしないですわねえ」


 最後尾を歩く魔女ヴェロニカが煙管をふかしながら揶揄う。

 彼女だけは飄々としているが、その目は油断なく周囲の「魔力濃度」を監視している。


「静粛に。……着きましたよ、子羊たち」


 俺は足を止めた。

 霧の晴れ間。巨大な岩肌に口を開けた黒い空洞。

 古代遺跡『嘆きの回廊』の入り口だ。

 帝国軍がこの中に「新型兵器」を隠匿しているという情報がある。それを破壊、あるいは奪取するのが今回の俺たちの仕事ビジネスだ。


 俺はドレスのスカートを少しだけ持ち上げ、太腿の『罪咎ザイ・キュウ』の冷たい感触を確かめる。

 この冷たさだけが、俺の理性を繋ぎ止めてくれる。


「行きますよ」


 俺は熱い吐息をこぼし、暗闇へと足を踏み入れた。


          *


 遺跡の内部は予想に反して清潔で、そして直線的だった。

 滑らかな石造りの通路がどこまでも真っ直ぐに続いている。灯りはないが、リーゼロッテが掲げた魔法の松明が青白く道を照らしていた。


 進んで、進んで、進む。

 敵の待ち伏せもない。罠もない。ただひたすらに回廊が続いているだけだ。


「……変ですね」


 最初に違和感を口にしたのはヴェロニカだった。

 彼女は石壁の一点を指差す。そこには微かな「傷」があった。何かがぶつかったような跡だ。


「この傷、さっきも見ましたわ」

「まさか。我々は一本道を直進しているはずですが?」

「ええ。ですが……私の『魔力探知』のマーカーもおかしいの。真っ直ぐ歩いているのに、座標がループしているような反応が出ている」


 俺は眉をひそめ足元の石畳を見る。

 俺たちがつけた泥の足跡が、前方に向かって伸びている。

 だが振り返ってみると、背後の暗闇からも「泥の足跡」が続いていた。まるで俺たちが背後から歩いてきて、前方に去っていったかのように。


(……空間転移?幻術か?)


 試しに壁にナイフで「×」印を刻み、さらに十分ほど歩いてみる。

 すると、再び目の前に「×」印が現れた。

 戻っても進んでも同じ景色。

 磁石は狂い手書きの地図は意味を成さない。入り口の扉すら消失している。


「……出られない?一生、この暗闇に閉じ込められたまま……?」


 リーゼロッテの声が裏返る。

 閉塞感。

 そして何より、「理屈が通じない」という事実が兵士である彼女たちの精神を削っていく。敵が見えれば切れる。だが空間そのものが狂っているなら、剣の振りようがない。


 セツナも野生の勘が通じないパニックで、俺の腕を強く掴んでくる。ヴェロニカが必死に数式を展開し計算を繰り返しているが、その額には脂汗が滲んでいる。


『ククク……ようこそ。歓迎するよ』


 不意に天井の高いところから、嘲笑うような男の声が響いた。

 姿はない。声だけが石壁に反響して脳内に直接響く。


『ここは私が作り上げた至高の結界『無限回廊』だ。出口はない。入り口もない。あるのは永遠に続く徒労だけ』

「……姿を見せなさい、卑怯者」

『暴力は嫌いでね。君たちが絶望し、水と食料が尽き、やがて美しき共食いを始めるまで……高みの見物をさせてもらうよ』


 典型的なインテリ魔術師のサディズムだ。

 ヒロインたちの顔に絶望の色が浮かぶ。このままでは戦う前に心が折れる。


(やれやれ。……湿っぽいのは空気だけで十分だ)


 俺は懐のニッキ飴をガリリと噛み砕くと、パンッと手を叩いた。

 その乾いた音は、パニックになりかけた空気を一瞬で凍りつかせた。


「……休憩にしましょう」

『……は?』

「セツナ、お茶の準備を。ヴェロニカはテーブルクロスを。リーゼロッテ、そこの石を使って椅子を並べてください」


 俺の突飛な命令に敵の声が素っ頓狂な音を上げる。

 だが俺の部下たちは優秀だ。

 「は、はいッ!」と反射的に動き出し、手際よく遺跡の通路を優雅なティーサロンへと変えていく。主人の命令があるだけで彼女たちは機能を取り戻すのだ。


 俺は椅子に座り、湯気の立つカップを受け取った。

 香りはアールグレイ。悪くない。


「リーゼロッテ。足が浮腫むくみました。お揉みなさい」

「はっ、喜んで……!」


 俺がわずかにスカートをたくし上げて指図すると、女騎士は跪き、恐れ多くもと白いふくらはぎを甲冑の手甲越しにマッサージし始めた。

 この状況下でマッサージを命じる聖女も聖女だが、役に立てることに安堵している騎士も大概だ。だがこれで平静を取り戻せるなら安いものだ。


「……さて。少し頭を冷やしてあげましょうか」


 俺はソーサーを置き、天井の虚空――「未知」の主に向かって不敵に微笑んで見せた。

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