第三章「血涙の目覚め」

 アンナと顔を合わせる時間が、少しずつ増えていった。


 広場で歌が終わるたびに、しばらく立ち話をする。

 それがやがて、近くの屋台で軽く飲み物を買って並んで立つ時間になり──そしてとうとう、彼女の家の前まで送っていくことも珍しくなくなった。


 最初に違和感を覚えたのは、ある夕暮れのことだった。


「その腕の痣は?」


 袖口からちらりと覗いた、黄ばんだ痣。

 アンナは、びくりと肩を震わせ、慌てて袖を引き下ろした。


「これですか? あはは、転んじゃって。段差につまずいて」

「そうですか」


 無理のある笑顔だった。

 その日は、それ以上詮索しなかった。


 だが同じような痣を、私は何度も目にすることになる。


 手首、二の腕、首元……いつも「転んだ」「棚にぶつけた」「荷物を落として」と、ぎこちない言い訳を繰り返す。

 それらが全部本当だと信じるほど、私は鈍感ではない。


「アンナ」


 ある日、彼女の家の前で立ち止まり、意を決して切り出す。


「正直にお訊きします。あなたの夫は──暴力を振るうのですね」


 アンナの表情から、一瞬で血の気が引いた。

 それでも、すぐには頷かない。必死に何かを取り繕おうとしているのが痛いほど伝わってくる。


 沈黙が、重くのしかかる。

 やがて、彼女は観念したように小さくうなだれた。


「……たまに、です」

「“たまに”で、あの痣の数ですか」

「あたしが、ちゃんとしてないから。家事を失敗したり、言い返したりするから……」


 典型的な言い訳だった。

 自分を責めることで、相手の罪を薄めようとする言葉。


「あなたは悪くありません」


 口をついて出た言葉は、自分でも驚くほど冷静だった。


「どれほど家事を失敗しても、どれほど言い返しても、暴力を振るっていい理由にはならない」


 アンナの目が、揺れる。


「逃げるつもりは、ないのですか」

「……そんな簡単に言わないでください」


 絞り出すような声だった。


「昔は優しい人だったんです、本当に。仕事をクビになってから……変わっちゃって。それに、夫を捨てるなんて…そんなこと、簡単にしていいはずないでしょう?」


 貧しい者同士の結婚。頼れる親族も少ない。

 詩人としての稼ぎだけで、今の生活を維持するのも難しい。


 頭では、「離れるべきだ」といくらでも言える。

 しかし、彼女の置かれている現実を思えば足がすくむ気持ちも理解できてしまう。


「あなたが望むなら、援助を申し出ることもできます」

「援助、ですか?」

「新しい住まいの費用や当面の生活費、移動の手段……その程度であれば、私の立場ならいくらでも用意できます。あなたが本気でここを出たいと望むのなら、力になりましょう」


 それは、打算のない申し出──というわけではなかった。

 アンナを夫から引き離せれば、彼女の視線は今以上に、私だけに注がれるだろう。

 そこに期待がまったく混じっていないと言えば、嘘になる。


 では、なぜこれほどまでに彼女に執着しているのか。

 彼女を異性として好いているからか。それとも、貴族として弱き者を救おうとする責務ゆえか。

 自問自答を繰り返してみても、はっきりとした答えは出なかった。


 しばらくすると、アンナが口を開く。


「……全部捨てるのが、怖いんです。夫も、家も、この街も。

 それに、トレーソンさんにも迷惑をかけてしまうし」


 その葛藤は、簡単な言葉で断ち切れるほど軽くはない。


(……実際に、会ってみるべきか)


 ふと、そんな考えがよぎる。


 彼女を追い詰めている男が、どんな顔をしているのか。

 どういう声で怒鳴り、どんな手つきで殴るのか。


 知らないままでいることが、妙に落ち着かなかった。


「一度、ご主人にお会いしても構いませんか」

「え……?」


「あなたの夫がどんな人間なのか、きちんと見ておきたい。

 いきなり家に押しかけたりはしません。たとえば、茶でもいただきながら、腰を据えて話す場を設けていただければ」


 アンナは、ひどく迷ったように唇をかんだ。


「……難しいと思います。あの人、気性が荒いもので」


 だが、私も引くつもりはない。


「知り合いが挨拶に来る──その程度でかまいません。何とか取り次いでいただけませんか」


 アンナは困ったように笑って、しばし黙り込んだ。


「……少し、考えさせてください」

「もちろん」


 こうして、事態は静かに転がり始めた。


* * *


 ──次に視えた“最悪の未来”は、血に塗れていた。


 ひとり、占いの館で帳簿を眺めながら、わたしはため息をつく。


 トレーソンのこと、アンナのこと。

 あの二人が出会ってしまってからというもの、嫌でも彼らの未来に意識が引きずられるようになっていた。


 視界の奥で、嫌な残像が瞬く。


 殴りつけられる青年。

 血だまりに顔を伏せながら、それでも笑って立ち上がろうとする影。


 それが誰で、どこで起こる出来事なのか、理解するのに時間はかからなかった。


「……アンナの、家」


 何度も聞いてきた間取り、狭いリビング。


 その真ん中で、トレーソンが殴られていた。

 拳を振るっているのは、見覚えのある輪郭の男──アンナの夫、ブラム・ヴォルテール。


 ブラムの名は、以前アンナの口から聞いていた。

 仕事に行き詰まり、酒に溺れ、苛立ちを家庭に持ち込むようになった。哀れで、最低な男。


(ここが、二つ目の分岐点……)


 彼が精神的な支配に味を占める未来。

 そして、暴力という支配を知ってしまう未来。


 どちらも、トレーソンの「満たされなさ」を埋めるための歪んだピースだ。


 ならば、そのピースがはまる前に壊してしまえばいい。


「ブラム・ヴォルテール……」


 名前を口にすると、舌に苦味が広がるようだった。


 家庭内暴力は、表立って許される行為ではない。

 民兵団──この街の治安維持を担う連中も、一応は「市民を守る」という建前で動いている。


 わたしは上着を羽織り、館を飛び出した。


* * *


 民兵団の詰め所は、思ったよりも近かった。

 酒と汗と鉄の匂いが混ざった薄暗い室内に、一歩足を踏み入れる。


「……あんたが通報者か」


 粗野な男が怪訝そうにわたしを見上げる。


「はい。ブラム・ヴォルテールという男について、話があります」


 アンナから聞いた住所、日々の暴力の様子、痣の位置、近隣の目撃談。

 わたしは、知っていることを一つ残らず吐き出した。


「ふん……まあ、よくある話だな」

「よくあるからといって、放っておいていいわけではないでしょう」


 思わず、きつめの口調になる。

 男は肩をすくめ、面倒そうに頭を掻いた。


「一応、事情聴取くらいはしてやるよ。最近は上の連中も市民保護だの何だのとうるさいからな」


 信用しきれる返答ではなかった。

 だが、何もしないよりはずっといい。

 ブラムを一時的にでも拘束できれば、あの最悪の未来を少なくとも先送りにはできるかもしれない。


「よろしくお願いします」


 わたしは深く頭を下げて、詰め所を後にした。


 胸の奥にかすかな安堵が灯る。

 これで、あの未来は帳消しになる――そう信じたかった。


* * *


 アンナの家の扉が開くと、彼女はいつもより少し深く息を吸い込んだ。


「いらっしゃいませ、トレーソンさん」


 エプロン姿のアンナが、どこか緊張を含んだ笑みを見せる。


「ええ。招いていただいて光栄です」


 軽く微笑みを返しながら、私は室内に視線を巡らせた。

 家の中は質素だが、隅々までよく整えられている。

 古びた机、擦り切れたソファ、壁にかけられた小さな風景画──


 アンナという人間の暮らしそのものが、そのまま形になったような空間だった。


「せっかく来ていただいたのですが、夫は不在で。急に呼び出されて、民兵団のほうへ……」


 その声音には、わずかな不安と、それ以上にほっとしたような安堵が混ざっていた。


「とりあえず、お茶を淹れますね」


 アンナは慣れた手つきで茶を用意し、私の前に湯気立つカップを置く。

 平穏な香りが立ちのぼる。


 しばらくは、何気ない会話を交わした。

 広場の子どもたちの話、最近覚えた新しい曲の話、ささやかな将来の夢。


 私は、できるだけ彼女の話に耳を傾けた。

 それは、彼女にとっての普通の時間であり、私にとっても心地よいひとときだった。


 ──しかし、その平穏は長くは続かなかった。


 バンッ──勢いよく玄関の扉が叩き開けられた。


 重い足音。

 乱暴に外套が壁に叩きつけられる音。


「……アンナ!」


 怒声が家じゅうに響きわたる。


 部屋の空気が、一瞬で張り詰めた。

 リビングの入口に立っていたのは、がっしりとした体つきの男──ブラム・ヴォルテールだった。


「お、おかえりなさい」


 アンナが、おそるおそる声をかける。


「今日は、来客がいらして──」

「うるせぇッ!」


 机の上の茶器が、びくりと震えた。


「民兵どもに、くだらねえ疑いをかけられたんだ。『妻に暴力を振るっているだろう』だとよ」


 ブラムの目には怒りと、底の浅い被害者意識が渦巻いていた。


「誰がチクったんだろうなあ? なあ、アンナッ!」


 名前を呼ばれた途端、アンナの肩がびくりと跳ねる。

 怯えたように視線をさまよわせ、やがておそるおそるブラムの顔色を窺った。


 その視線の流れに沿うように、ブラムの目が、じわりとこちらへと向かってくる。

 ようやく、部屋の中に自分以外の男がいることを認識したらしい。


「……で、こいつは何だ」


 私は、ゆっくりと立ち上がった。


「初めまして。トレーソン・イニーツィオと申します。あなたの奥様とは、広場での歌をきっかけに知り合いまして」


「その身なり……貴族様か?」


 ブラムは、あからさまに舌打ちした。


「いい身分だなあ、貴族様よ。

 てめぇらのせいで、俺は仕事を真っ先に切られたってのによ。

 今日は今日で、民兵どもに“家庭内暴力だ”なんて勘ぐられてよぉ!

 結局、自分の懐から金出すハメになったじゃねえかよ、どうしてくれるんだ! あぁ!?」


 ひどい八つ当たりだ。家庭内暴力の疑いはどう考えても事実であり、彼の仕事事情、金銭事情など私には一切関係がない。

 だが、このままでは話にならない。まずは頭を冷やしてもらう必要がある。


「落ち着いてください、ブラムさん」


 私は、できるだけ穏やかな声を保つ。


「誰が通報したのかはわかりませんが、少なくとも──奥様に手を上げるのは、やめるべきです」


「……は?」


 瞬間、空気の温度が下がった気がした。


「殴られていい人間などいません。もし、あなたが仕事や生活に苛立ちを覚えているのなら、それは別の形で発散するべきだ。暴力は誰の心も救わない」


 そう言いながらも、その言葉が妙に空虚に響くのを感じていた。


「……てめえ」


 ブラムの拳が、私の胸ぐらを掴む。


「他人の家に上がり込んで、説教か? 貴族様は偉いもんだなぁ!」


「やめてッ! やめてあなた!」


 アンナが悲鳴交じりに叫ぶ。


「黙ってろ!」


 振り払われた腕が、アンナを遠ざける。


 次の瞬間。

 ブラムの拳が、私の顔面を貫いた。


 鼻が折れた感触とともに、どっと温かいものが溢れ出す。

 床に叩きつけられ、視界が大きく揺れた。


 その瞬間──視界の奥で、何かが弾けた。


 頬に走る痛み。

 鼻をつたう血の感触。

 全身を駆け巡る、焼けつくような衝撃。

 そのひとつひとつが、これまで縛られてきた人生を裏返す、まったく新しい感覚として、容赦なく私を塗り替えていった。


 そしてすべての上に、ひとつの感情が、異様な鮮明さで浮かび上がる。


 ──恐怖。


 目の前の男に対する、生々しい恐怖。

 次の一撃で何を失うのか、まるで見当がつかない、底なしの恐怖。


 そして、それに伴う説明のつかない高揚。


(……これだ)


 心の中で、はっきりと言葉になった。


 これまで私がアンナに惹かれていた理由も、突き詰めれば精神的な支配を味わっていたからだ。

 だが所詮そんなものは、心が弱りきった者にしか通用しない脆い支配にすぎない。


 しかし──この拳は違う。


 心が強かろうが、意思が固かろうが、脳が「怖い」と判断すれば、身体は従う。

 暴力ちからは理屈を超えて、人を跪かせることができる。


 二撃目が、頬を打ち抜いた。

 三撃目が、口内を切り裂いた。


 殴られるたびに、涙が溢れてくる。

 痛みと恐怖と屈辱が、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、視界をぼやかす。


 だが、その涙には──別の意味もあった。


「……ありがとう」


 自分でも、何を言っているのかわからなかった。


「私は今、あなたに畏怖を覚えている……」


 血で濡れた口元が、自然と笑みの形を作る。


「これだったのだな……私に足りなかったものは……」


 ブラムの拳が止まる。

 理解不能なものを見る目で、私を見下ろしていた。


「……気持ちわりぃな、おい……なんなんだてめぇは」


 怒鳴りつけるような口調の裏側で、ほんのわずかに声が震い、目の奥に得体の知れない恐怖が滲んでいるのがわかった。


 私は、ふらつきながらも立ち上がろうとする。

 膝が震え、体が言うことをきかない。

 それでも、立ち上がらずにはいられなかった。


 涙が、頬を伝って落ちる。

 それは血と混じり合い、赤い筋となって床に滴った。


 視界の端で、呆然としたアンナの顔が揺れる。


 痛みの中で…今までの「満たされぬ感覚」が、少しずつ形を変えていくのを感じた。


 心に空いていた穴を、恐怖と暴力がゆっくりと満たし始めている。

 今まさに、私という人間の本当の人生が始まろうとしていた。

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