第4話 空振りの救済魔法

 ルーデン村に来てから三日。

 辺境の朝は早い。鳥の声で目が覚め、村人たちは陽が昇る前から畑を耕す。

 アレンも例外ではなかった。追放された聖魔導師などという肩書きは、この村には関係がない。

 誰も彼を責めず、ただ「働く手があるなら助かる」と笑って迎えてくれる。


 そうした空気が、今の彼には何より救いだった。

 だからこそ、力を使わずに過ごしたいと本気で思っていた。

 もう魔法も戦いも沢山だ――そう、少なくとも朝までは。


         ◇


 陽が高くなった頃、畑の隅で村長の息子が叫んだ。

「大変だ! 川の向こうで魔獣が出た!」


 その声に村人たちがざわつく。

 アレンは手にしていた鍬を置き、顔を上げた。

 川は村の命だ。そこが荒らされれば全員の生活に関わる。


「どんな魔獣だ?」

「でっかい猪みたいなやつで、角が三本! 畑を踏み荒らし始めてる!」


 アレンはため息をつきながらも、足を向けた。

 村人は慌てて止めようとしたが、彼は笑って言う。

「見に行くだけですよ。ただ、何もしないとは約束できませんが」


 川を越えると、土煙の向こうに巨大な灰色の生物が暴れていた。

 体長は馬車二台分。角の根元には黒い瘴気がまとわりつき、目は赤く光っている。

 どう見ても普通の猪ではない。瘴気に侵され、理性を失った“魔獣”だ。


「……瘴気残留量、王都近郊より濃いな」

 口の中でそう呟く。

 辺境の土地は、かつての戦争で活性化した瘴気が未だ消えきっていない。

 本来なら神殿の浄化班が定期的に来るはずだが、王都が彼を追放してから忙しさにかまけ、放置しているのだろう。


 アレンはすぐ近くの子どもを見つけた。ミーナだった。

 昨日助けた婆さんの孫だ。

「ミーナ、危ないから下がって!」

「でも、家畜があそこに……!」


 ミーナが指差した先、柵の奥にヤギの群れ。暴れる魔獣が今にも突進しようとしている。

 アレンは冗談のように呟いた。

「今日こそ、静かに終わらせたかったんですがね」


 右手を軽く振る。空間に淡い光陣がひとつ浮かぶ。

 同時に、空気が震えた。

 風の流れが一瞬で変わり、地面をえぐるほどの衝撃が走る。


「グオオオオォォォッ!」


 魔獣が苦しそうに声を上げた。

 見れば、光陣から伸びた鎖がその体をがんじがらめにしていた。

 聖なる鎖――神域封鎖魔法。

 本来なら教会の最高神官しか扱えない、封印術の頂点。


(……多少、やりすぎたかな?)


 アレンは地面を踏みしめ、もう片方の掌を上に掲げた。

 淡い金色の輝きが指先から広がる。

 瘴気がみるみる薄れ、獣の赤い瞳が静かに黒へと戻る。


 鎖が消えると、巨大な猪は苦しそうに息を吐き、地面に横たわった。

 そして、まるで礼を言うように首を垂れると、そのまま森の奥へと去っていった。


 村人たちは息を呑み、沈黙した。


「お、おい……今のは……」

「なんだ、あの光……。あんな魔法見たことねぇ」

「まさか、本物の聖人様ってやつか……?」


 ざわめく声をよそに、アレンは肩をすくめた。

「いえ、ただの治療魔法ですよ。誇張しないでください」


 その言葉に、村人たちは困惑と尊敬が混ざったような眼差しを向ける。

 誰も信じてはいない。

 だが当の本人は、心底本気で言っている。


 ミーナが両手を握りしめて駆け寄ってくる。

「アレンさん、すごい! 本当にすごいです!」

「まぁ、なんとかなって良かったです。畑の被害も少なそうだ」


 アレンは軽く地面を叩き、干からびた地を蘇らせる。

 芽が再び顔を出し、枯れた稲が緑を取り戻す。

 その様子に村人がどよめき、信仰にも似た視線を向ける。


「聖者だ……いや、神様かもしれねぇ……」

「アレン様って呼ぶべきだな……」

「いやいや、やめてください」


 アレンは苦笑しながら汗を拭った。

 別に信仰されたいわけでも、名誉がほしいわけでもない。

 ただ、人が生きる場所が保たれればそれで十分だった。


 しかし、その直後。

 青空の下で、場違いな“声”が響いた。


「見つけたぞ、アレン=クロード!」


 振り返ると、鎧の集団が川向こうから現れていた。

 王都の文様を掲げる神殿騎士団――そして、彼らの前に立つのは金髪の女。

 リリア=シェード。

 かつての仲間だった。


 ミーナが不安そうにアレンを見上げる。

「アレンさん……あの人、知ってるんですか?」

「ええ、昔、一緒に働いていた人です。ただ、もう用はないと思っていたんですが」


 アレンが軽く息をつくと、リリアは杖を地面に突き立てた。

 周囲に展開された魔法陣。彼女の足元から光が走る。

「アレン=クロード。あなたを異端魔導師として拘束します。抵抗しないで」


「異端?」

 アレンが眉をひそめる。

「あなたが辺境で行った禁術――“神域干渉”。王国の法では、神の権能に触れる行為は最大級の罪。潔く従いなさい」


「なるほど。つまり、村を守ったら罪、というわけですか」

「そういう問題じゃない! あなたの力は危険すぎる!」


 リリアの叫びに、アレンはふと笑った。

 その笑みは穏やかで、どこかあきらめにも似ていた。


「危険なのは、力じゃなく、それを恐れる人の心ですよ」


「……っ、だからこそ封じるのよ!」


 リリアが詠唱に入る。周囲にいる神殿騎士たちが一斉に魔法を重ねた。

 だが次の瞬間、風が止まった。


 アレンの足元で、土が静かに光る。

 周辺一帯の瘴気が吸い込まれ、大地が呼吸するように震えた。

 魔法陣が展開されたまま、リリアの詠唱が途切れる。


「まさか、干渉して……!? ありえない、術式が上書きされた……!」


 アレンは何もしていない。ただ立っているだけだった。

 彼が放つ無自覚な魔力が、あらゆる魔法体系を自己修復する“自然の法”へと変換していたのだ。


「……あなた、本当に自分のしていることを理解していないのね」

 リリアの声が震える。

 だがアレンは静かに首をかしげた。


「理解しようとも思っていません。誰かが困っていなければ、それでいい」


 その言葉に、リリアは一瞬だけ表情を曇らせ、そして口を噤んだ。

 神殿騎士たちは混乱し、足を止めている。

 戦えない。いや、“戦う必要を感じない”。

 無意識に、誰もが武器を下ろしていた。


 アレンがやがて背を向ける。

「リリア、あなたも疲れているでしょう。戻るといい。俺はもう王国とは関わりません」


 その背中を見つめ、リリアは唇を噛んで震えた。

 追放されたはずの彼が、誰よりも高貴に見えた。

 その姿は、王でも勇者でもなく、まるで世界そのものが形を取ったようだった。


「……アレン。お願い、これ以上、何も起こさないで」

「起こしているのは世界の方ですよ。俺は何もしていない」


 そう言い残し、アレンは村へと戻っていった。

 彼の歩いた後には花が咲き、空が澄み渡っていく。


 それを見たリリアは、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。


「……やはり、あなたは“救済”なんかじゃない。――災厄の中心よ」


 その夜、王都への緊急報告書が飛び交う。

 『禁術保持者アレン=クロード、神域反応を確認。対神格級と推定』

 王宮が再びざわめきに包まれるのは、翌日の朝のことだった。

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