第3話 浦島太郎の帰還と「神の視点」

 浦島太郎の帰還と「神の視点」


特異点を逆走し、数万年後の地球に降り立ったエレーナ。彼女の肉体は、もはや純粋な有機物ではなかった。

 観測者との接触により、彼女の脳には宇宙の階層構造(ソースコード)が刻み込まれ、視覚は「物質の表面」ではなく「情報の密度」を捉えていた。


[Image: Elena standing on a pristine beach, seeing digital strings interlaced with nature]


 彼女が周囲を見渡すと、草木の一本一本がどのような数式で構成され、どの程度の演算負荷で維持されているかが瞬時に理解できた。

 観測者から得た知識は、彼女を「万物を見通す者」へと変えていたのだ。


 しかし、その知識がもたらしたのは万能感ではなく、耐え難い孤独だった。

「アンナ……あなたのいた世界は、これほどまでに儚いコードの積み重ねだったのね」


 彼女はかつての自宅があった場所を訪れた。そこにはもはや瓦礫すら残っておらず、ただ美しい森が広がっているだけだった。

 エレーナは、観測者の知識を用いて、大気中の残留情報をスキャンした。

かつて人類が放った電波、交わされた言葉、そして「プロトコル・オメガ」によって停止していった人々の意識の断片。


 そこで彼女は気づく。人類はただ滅びたのではない。

 彼らは「時間の停滞」の中で、それぞれが内なる宇宙へと沈み込み、静かにその一生を終えていたのだ。

「私たちはフラスコの中の菌だったかもしれない。でも、この最後の一行まで、誰もが必死に自分の物語を書き込もうとしていた」


彼女は決意した。神の知識を、この世界を支配するためではなく、この世界に「新しい物語」を再起動させるための触媒として使うことを。


 聖なるコードと新しい神話

エレーナは、自らの命が尽きる前に、新人類への「種子」を蒔く作業に入った。彼女は観測者から奪い取った「高次元の演算言語」を、人類が理解できる「言葉」と「感覚」へと翻訳し、それを自分自身のDNAに刻み込んでいった。


 彼女が遺した「言葉(コード)」は、新人類の意識の奥底に、本能として組み込まれた。


【エレーナが遺した三つの聖なるコード】

「ゆらぎの肯定(ランダマイザー)」 「完璧な円を描く必要はない。線が震える場所にこそ、魂が宿る」 ――これは、効率と最適化を追求しすぎて自滅した旧文明への反省であり、不完全さの中にこそ進化の可能性があることを説くコード。

「有限の抱擁(タイム・リミッター)」 「時間は奪われるものではなく、私たちが世界に与える贈り物である」 ――死や終わりのある時間を、恐怖ではなく、一瞬一瞬を輝かせるための「枠組み」として捉え直すためのコード。

「螺旋の誓い(ヘリックス・プロトコル)」

「すべての終わりは、一段高い場所への始まりに過ぎない」

――直線的な進歩ではなく、同じ場所を回りながらも少しずつ高みへと登る「螺旋」の歩みを促すコード。

[Image: Ancient-style stone tablet glowing with futuristic binary runes]


数世紀後、

 新人類たちは原始的な文明を築き始めた。彼らは、時折発見される「銀の輝き(エレーナのナノマシンの残滓)」を聖遺物として崇め、彼女が遺した言葉を詩や歌として語り継いだ。


 彼らにとって、エレーナはもはや一人の科学者ではなく、宇宙の冷徹な計算から「心」を盗み出し、人間に与えたプロメテウスのような存在だった。


「母なるエレーナは言った。星が流れるのは、宇宙が泣いているからではなく、次の物語へページをめくる音なのだと」


 夜空を見上げる新人類の瞳には、かつてのエレーナが失ったはずの「明日への希望」が宿っている。

 ブラックホールの事象の地平に咲いた螺旋の意志は、こうして数万年の時を超え、不完全で、しかし何よりも美しい「新しい生命」の鼓動へと繋がっていった。

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