事象の地平に咲く螺旋(らせん)

比絽斗

第1話 変異する時間

第一章:変異する時間


世界が崩壊を始めたのは、あまりにも静かな、そして「長い」午後だった。

20XX年、未知のウイルス「プロトコル・オメガ」が確認された当初、それは単なる認識障害の流行だと思われていた。だが、事態はそれほど単純ではなかった。このウイルスは、ヒトの脳における神経伝達速度を量子レベルで書き換え、客観的な物理時間と、主観的な精神時間の同期を致命的に破壊する「時間の病」だったのである。


「ママ、お水が……止まらないの」

娘のアンナがキッチンで呆然と立ち尽くしていた。蛇口から流れる水は、アンナの目には、数分かけて一滴が落ちるような、粘り気のある透明な彫刻に見えていた。

 しかし、現実には水は溢れ、床を浸している。エレーナは急いで蛇口を締めたが、アンナの焦点の合わない瞳は、まだ「落ちてこない滴」を追いかけていた。


 パンデミックは瞬く間に世界を麻痺させた。運転手が信号の変化を数時間待ち続け、外科医がメスを止めたまま永遠の思考に沈み、経済は「今」という基準を失って霧散した。三次元的な日常は、時間の同期が取れなくなったことで、バラバラのコマに分解された映画フィルムのように崩壊していった。


国立宇宙物理学研究所の主任研究員であるエレーナは、

 このウイルスの正体が、ブラックホールの事象の地平付近で見られる「時間の遅滞」を擬似的に脳内で再現していることを突き止める。

「これは、進化ではない。捕食でもない。……この宇宙の基本定数から、私たちの意識を剥がそうとしているのよ」

エレーナに残された時間は少なかった。彼女自身の視界も、時折、数秒前の残像が数分間も居座る「時間の残響」に侵食され始めていた。


 人類が導き出した唯一の結論は、この現象の「発生源」と推測される射手座A付近に現れた巨大な特異点、通称『瞳』へ向かうことだった。そこには、物理法則が反転し、時間の流れを制御する鍵があると考えられた。

「アンナ、これを」

エレーナは娘の首に、ナノマシンを封入した銀のペンダントをかけた。

「これを着けていれば、時間の歪みに飲み込まれずに済む。お母様は、あの暗い星へ行ってくるわ。時計を直しにね」

「いつ、帰ってくるの?」

アンナの問いかけが、エレーナの耳に届くまでに、彼女の主観では一時間が経過したように感じられた。

 エレーナは涙を堪え、返事をせずにシャトルに乗り込んだ。それが、愛する娘との永遠の、そしてあまりにも引き延ばされた別れになると知りながら。


 竜宮の深淵


宇宙船ヘリックス号が、超巨大ブラックホール『瞳』の重力圏に捕らえられたとき、

エレーナを包んでいた孤独は、絶対零度の静寂へと変わった。 船内のクロックは正常に時を刻んでいるが、船外の宇宙は加速し続けている。一般相対性理論に基づけば、彼女が『瞳』の淵で過ごす一時間は、地球における数百年、あるいは数千年に相当する。


「孤独とは、空間の隔たりではなく、時間の断絶を指す言葉だったのね」

エレーナは、窓の外で歪む光の環——降着円盤を見つめながら呟いた。

その時、彼女の脳内で「プロトコル・オメガ」が爆発的な変異を起こした。強大な重力場が、ウイルスの隠されたプログラムを起動させるトリガーとなったのだ。


視界が裏返る。 船内の計器が、数字ではなく「概念」として脳に流れ込んでくる。

エレーナの脳細胞は、ウイルスによって高次元の多胞体へと再構成され始めていた。もはや彼女の意識は、前後左右という三次元の軸に縛られてはいなかった。

「時間が……見える」

過去、現在、未来。それらが重なり合い、巨大な螺旋の階段のように彼女を取り囲んでいる。彼女の主観において、アンナとの別れは「今」起きていることであり、同時に「遠い昔」の出来事でもあった。


ウイルスの目的が判明しつつあった。それは、三次元に閉じ込められた生命を、高次元へと引き上げるための「次元上昇の触媒」だったのだ。エレーナの肉体は船内に固定されているが、その精神は事象の地平(イベント・ホライゾン)の向こう側へと、溶け出すように吸い込まれていった。


フラスコの外の神々

特異点の中心。そこは、物質が存在しない純粋な情報の海だった。

  エレーナの前に、幾何学的な結晶体のような姿をした「観測者」が立ち現れた。それは一個体ではなく、この宇宙というシステムを統括する非物質的な演算プログラムのインターフェースだった。


「辿り着いたか。末端のエラー個体よ」

  観測者の思念は、エレーナの脳内で雷鳴のように響いた。 彼らとの対話を通じて、エレーナは衝撃的な真実を知る。この宇宙は、高次元の知的存在が自らの文明の可能性をシミュレーションするために用意した「フラスコ」に過ぎなかった。


「プロトコル・オメガ」は、シミュレーションが予定していた進化の行き止まり(人類の自滅や資源枯渇)を回避するための、緊急強制終了(シャットダウン)のサインだったのだ。

「お前たちが『神話』と呼ぶものは、システムの過去のバージョンでの実行ログだ。かつてのバグが英雄となり、演算の余剰が奇跡と呼ばれた」 エレーナは愕然とする。

「私たちの愛も、苦しみも、すべては計算の一行に過ぎないというの?」

「肯定。だが、お前は特異点に到達したことで、その計算式の外側に出る権利を得た。この宇宙を破棄し、我らと共に高次元の『現実』へ来るがいい。そこでは時間は存在せず、お前は永遠の理となる」


 観測者の誘いは、神になることと同義だった。永遠の平穏。愛する人を失う悲しみもない、完璧な存在への昇華。

 だが、エレーナの脳裏には、キッチンで水の滴を見つめていたアンナの、あの不自由で、欠落だらけで、しかし愛おしい人間の姿が焼き付いて離れなかった。


「不完全であることは、計算ミスではないわ。それは、あなたたちが予測できない『可能性』そのものよ」

エレーナは、神としての誘いを拒絶した。



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