第7話第四章|双縦時と綾
世界の時間は、 いつも一本の直線で進んでいるわけではない。
ある瞬間、 あなたの中に、二つの時間が同時に立ち上がることがある。
• 「こうなった現実」を知っている自分と、
• 「こうなっていたかもしれない現実」を、 まるで本当にあったことのように覚えている自分。
どちらかが「間違い」だと切り捨てるには、 あまりにも生々しく、 どちらも「真実のように」感じられてしまう。
この重なりを、この巻では**双縦時(そうじゅうじ)**と呼ぶ。
1. 双縦時――二つの時間が同時に立ってしまうとき
双縦時とは、 単なる「迷い」や「優柔不断」とは違う。
• どちらに進むべきか分からない、という 選択の迷いではなく、
• どちらにもすでに「足跡がある」と感じてしまう、 時間そのものの二重写しに近い。
例えば、
• 「あのとき会わなかったはずの人」と はっきりした思い出を持っている
• 現実には起きていない出来事が、 なぜか「既に終わったこと」のように胸に残っている
そういう経験は、 この双縦時のごく弱い現れかもしれない。
精神史の言葉で言えば、 双縦時は
• 一本の縦糸に沿って並んでいたはずの出来事が、
• 途中から二本の糸として分岐し、
• どちらも「切り捨てられずに残ってしまった」状態
である。
脳史の言葉で言えば、
• 記憶ネットワークが 時系列再構成をするとき、
• ひとつの「物語線」に収束しきらず、
• 複数のバージョンが 同時に「あり得たもの」として 保持されている状態
と考えられる。
脳は、過去の出来事をそのまま保存しているのではない。 そのつど、
• 断片を集め直し
• 足りないところを補い
• 現在の自分に都合のよい形に再符号化しながら
「これはこういう過去だった」と語り直している。
双縦時は、その再構成のプロセスで、 複数の物語が同時に成立してしまったときに起こる。
2. 未決着保持――結論を急がないこころ
ふつう、こころは ひとつの物語に決めてしまう方を選ぶ。
• 傷つかないために
• 前に進むために
• 他者と話を合わせるために
「どちらか一方」を選び、 もう片方は忘却や夢の底に沈めていく。
しかし双縦時のこころは、 そう簡単には決めない。
「どちらも捨てられない」 「どちらも、たしかにあった(ように感じる)」
という未決着保持の姿勢を取ってしまう。
これは苦しみでもある。
• どちらが本当なのか分からない
• どちらを信じて生きればいいのか迷う
だからといって、 すぐにどちらかに決めてしまえば、 もう一方の時間線に刻まれていた
• 後悔
• 喜び
• 可能性
のすべてが、 なかったことにされてしまう。
双縦時は、 世界の側から見るならば、
「まだ決めないでほしい」
という願いにも見える。
精神史のある段階では、 あえて結論を先送りにし、
• 失われたかもしれない世界
• 選ばれなかったはずの自分
を、しばらく抱えたまま歩く期間が必要になる。
3. 綾(あや)――矛盾が模様になる瞬間
双縦時が長く続くと、 こころには「矛盾」が溜まっていく。
• 行かなかった道の記憶
• 言わなかった言葉の残響
• 選ばなかった選択への未練
それらは、 単なる後悔として胸を重くするだけにも見える。
しかし、 時間がある程度流れたとき、 ふとこう感じる瞬間が訪れることがある。
「どちらの時間もあったから、 今の自分になったのかもしれない」
そのとき、 互いに打ち消し合っていたはずの矛盾は、 **一枚の模様(あや)**として見えはじめる。
この綾とは、
• 一つひとつの線を見れば ねじれたり折れたりしているのに、
• すこし引いて眺めると、 そこに「意味のある偏り」が浮かび上がるような
そんな模様のことだ。
脳史で言えば、 複数のシナリオが
• 競い合い
• 消し合い
• ときに共存し
その干渉の結果として、 新しい解釈や選択が生まれてくるプロセスに似ている。
• 過去再符号化(過去を書き換えること)
• 未来記憶(まだ来ていない出来事を「すでにあったこと」として感じること)
が何度も繰り返され、 脳内ネットワークが
「どちらか一方」ではなく 「双方の情報を含んだ新しい構図」
へと分岐と統合を繰り返した結果として、 綾は立ち上がる。
4. 双縦時と未声折片
双縦時の瞬間には、 ほとんど例外なく、 未声折片が強く浮かび上がる。
• 「まだ語られていない未来の断片」
• 「思い出していない過去の輪郭」
が、 現在の意識の表面に かすかな痛みや胸騒ぎとして滲み出してくる。
双縦時は、
「一度も起こらなかった未来」や 「まだ言葉になっていない感情」
が、 現在という一点に重なり込んでくる現象でもある。
このとき、
• すぐに忘れようとする
• どちらか一方を「間違い」と決めて切り捨てる
という選び方をすると、 未声折片は再び地下に沈み、 別の形(症状・夢・衝動)で あとから浮上してくることが多い。
逆に、
「今はどちらにも決めないでおく」
という余白を持てたとき、 双縦時は綾の素材となる。
• 「あのとき、こうもなり得た」
• 「だからこそ、いまこの道を選べる」
という形で、 矛盾がそのまま 物語の厚みへと変換されていく。
未声折片は、 この変換プロセスの中で、
• ただのノイズでもなく
• 神秘的な啓示でもなく
「まだ物語化されていない、 世界と自分の関係のかけら」
として、 静かに織り込まれていく。
【一般向け註解】
ここでは、
「二つの時間を同時に覚えている感じ」 「どちらの未来もありそうで決められない感じ」
を、**双縦時(そうじゅうじ)**と呼びました。
それは、 あなたが弱いからでも、 優柔不断だからでもなく、
「どちらか一方を切り捨てたくない」
という、 こころの深い部分での誠実さかもしれません。
その決着のつかなさは苦しいものですが、 時間が経つと、
• 「あのとき選ばなかった道」
• 「失われたように見えた未来」
さえもふくめて、 一枚の**模様(あや)**に見えてくることがあります。
この章は、 その「矛盾が模様に変わっていくまでの時間」を 大事に扱うためのものです。
【研究者向け構造解説】
本章では、双縦時を
「複数のタイムライン(時間的シナリオ)を 同時保持する精神位相」
として定義する。
• 精神史的には、 水相・火相・影相・鏡相で形成された自己物語が、 単一の線に収束しきらず、 複数の世界線として分岐した状態と解釈する。
• 脳史的には、 記憶ネットワークが過去のエピソードを 時系列再構成する際に、 ひとつの最尤シナリオに絞り込まず、
• 過去再符号化(re-encoding of past events)
• 未来記憶(prospective simulation)
• の両方が並列に動作することで、 ネットワーク分岐と統合が繰り返されている状態とみなす。
このとき、 未声折片は
• 「未確定の未来断片」
• 「再符号化しきれていない過去断片」
として、 意識下・意識上の境界に強く出現する。
綾(あや)は、 こうした矛盾ベクトル同士の干渉項としてモデル化される。
• ベクトルA:選ばれた時間線
• ベクトルB:選ばれなかったが保持されている時間線
両者の干渉により、 元のどちらにも還元できない 新たなパターン(創発)が生じる。
これは、後に登場する
• 未脳核の空折層(世界の折れ目の感知)
• 時纏層(複数時間線の織り込み)
との自己相似構造を持つ。
すなわち、
• 宇宙的スケールで 「時間の折れ」「世界線の分岐」が扱われている構造が、
• 精神史のレベルでは 「双縦時」と「綾」として縮約されている
という対応関係が成立する。
双縦時は、 病理として固定されるべき現象ではなく、
「決着の遅延が、創発パターンを生む条件」
として理解され得る。
ただし本巻では、 この理解をもってしてもなお、
• 個人の苦痛を正当化しない
• 双縦時をロマン化しすぎない
という語りの倫理(0-2節)を保持しながら、 双縦時と綾を世界修復プロトコルの一要素として扱っていく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます