『父の残した男』
@mai5000jp
『父の残した男』
『父の残した男』
父が去ったあとも
家は崩れなかった
椅子は同じ場所にあり
朝の光は
いつもと同じ角度で差し込んだ
それを支えていたのは
父ではなく
父のそばに立っていた
一人の男だった
彼は何も語らなかった
功績も
忠誠も
愛も
名付けることをしなかった
ただ
水を替え
床を拭き
汚れた場所に
黙って膝をついた
子どものころ
聖書の言葉を
彼と声に出して読んだ
「むなしい」
その意味が
喉を通り過ぎて
何も残らなかった
知恵を集め
財を積み
称賛を受け
世界が手の内に収まったころ
ようやく
あの一語が
胸に落ちた
むなしい
――満ちていないのではなく
満ちすぎたあとに残る
静けさの名前
彼は最初から
それを知っていた
だから
増やさなかった
誇らなかった
比べなかった
父が残したのは
財産ではない
教えでもない
満ち足りて
感謝する姿を
生きたまま示す
一人の男だった
今も
トイレの隅に残る
水の音のように
彼の背中は
何も語らず
私を諭している
超えられなかったのではない
最初から
競う場所に
立っていなかったのだ
父の残した男は
今も
この家を
静かに満たしている
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