忘却の本棚で、君を待つ
蓮条
第1章 誰かを好きだった……記憶?
とある日の朝の空気は、少し湿っていた。
駅へ向かう道すがら、
雲の切れ間から僅かに光が覗いて、空気の匂いは確かに“雨の予感”を含んでいた。
すーんと鼻で息を吸い込んだ、その時。
胸の奥がふいに“トクン”と鳴った気がした。
懐かしくて、切ない。
それでもどこか温かい感情が胸にふっと浮かんだ。
――誰かを、好きだった気がする。
けれど、誰を?
顔も、名前も、声すら思い出せない。
ただ雨の匂いとともに蘇ったその感覚だけが、遥の中に燻った。
*
会社に着くと、いつものようにパソコンを立ち上げ、メールを確認する。
文芸編集部の朝は早い。新刊の進行管理、著者とのやりとり、校正のチェック。
けれど、どれだけ目の前の作業に集中しようとしても、心のどこかがぽかんと穴が開いて……。
まるで、何か大事なページが一枚抜け落ちているような感覚。
ふとした瞬間に、その“感覚”が胸をよぎる。
(なんだろう……この、ぽっかりとした穴みたいな感じは)
*
昼休み、営業部の
近くのカフェでサンドイッチを頬張りながら、晶が言う。
「ねぇ、今日ちょっとぼーっとしてない? なんかあった?」
「……うん、なんか、私に恋人がいたような気がして……、ちょっと変な気分」
「え、何それ。……恋人を忘れてるってこと?」
「……わかんない。そんな人、いたっけ? って考えてみたけど、思い出せないの」
晶は目を丸くしてから、にやりと笑った。
「何それ、ロマンチックじゃん。記憶喪失の恋人とか、少女漫画みたい」
「やめてよ、揶揄わないで」
「ごめんごめん」
遥は胸の奥がざわついている気がした。
*
ランチを終えて外に出ると、空はすっかり灰色に染まっていた。
ぽつ、ぽつ、と頬に冷たいものが落ちてくる。
「あ、やば。降ってきた! 遥、ちょっと待ってて! 傘買ってくる!」
晶が慌ててコンビニに駆け込む。
遥は念のためにと持参していた折りたたみ傘を広げた、その時――。
「悪い、入れて!」
突然背後から傘の中に入り込んで来たのは、同期の
すでに肩先が濡れていて、苦笑いを浮かべている。
「え、ダメ」
遥はきっぱりと断る。
「は?」
「相合傘は――大好きな人とするって、決めてるの」
「え、何だよ、それ。……意外」
「そう?」
「遥って、そういうの気にしないタイプかと思ってた」
「……でも、なんとなく、そう決めてた気がするの」
自分でも、なぜそんな言葉が口をついて出たのか、分からなかった。
けれど、言葉にした瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなった気がした。
*
その夜、帰宅してからも、あの感覚は消えなかった。
誰かを好きだった気がする――その思いが、胸の奥で静かに燻っている。
ふと、本棚の前で足が止まる。
仕事柄、本はたくさんある。
けれど、なぜか今日は、普段近づかない棚の辺りが気になってしまった。
重なり合った文庫本の隙間に、見覚えのない一冊が。
表紙は少し色あせ、読み返した跡が残っていた。
手に取ると、ページの間から何かがひらりと床に落ちた。
「しおり?」
見たこともない古びた手づくりのしおり。
そして、そこには手書きの文字が。
『このシーン、好きだよね』
その文字を見た瞬間、遥の心がざわめいた。
この字を知っている。
この言葉をどこかで聞いたことがある。
誘われるようにページを捲る。
そこには、物語の中でふたりの登場人物が、雨の中で相合傘をするシーンが描かれていた。
――相合傘は、大好きな人とするって、決めてるの。
遥は今日自分が言った言葉を思い出す。
まるで、誰かが自分の中に残した『種』が、今芽吹いたような感覚だった。
しおりの裏には、小さな文字でこう書かれていた。
『
それが、どこなのかはわからない。
けれど、その名前を目にした瞬間、遥の中に微かなざわめきが走った。
どこかで聞いたことがあるような……そんな気がする
「……探してみようかな」
声に出してみると、不思議と胸がすっと軽くなった。
まるで、探していた“答え”が、そこにあるような気がして。
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