第六話『目覚めとミカエル』
第六話『目覚めとミカエル』
第一章 十三階層の静寂
第一節 眠る悪魔
地獄界、第十三階層──
その存在すら、ルシファーもサタンも知らない。
歪んだ時空の底にわずかに開いた“余白”のような場所。
黒も赤も届かない、ただ無色の静寂が満ちていた。
そこに在る、ひとつの影──ヘイル。
壁も床もない空間に、彼はただ、静かに座したまま眠っていた。
まぶたの奥で世界は閉じ、
夢も見ず、欲も持たず、ただ“存在の呼吸”だけが静かに揺れていた。
すべての波動を拒絶し、
すべての干渉を超越した場所で──
彼は唯一、眠ることを許された悪魔だった。
第二節 目覚めと光
「──?」
何かが、触れた。
まぶたの裏に、柔らかな光。
地獄界に存在するはずのない、温かい白。
ゆっくりと目を開くと、
そこには、微笑むひとりの女性がいた。
滑らかな銀の髪。
あらゆる対称が崩れぬまま整ったような容貌。
纏う光は威厳ではなく、慈しみの気配。
──ミカエル。
熾天使にして、かつてルシファーと双翼をなした者。
「おはようございます。ミカエル様」
眠りを妨げられながらも、ヘイルは静かに一礼する。
声に感情はないが、確かな敬意が宿っていた。
第三節 女神の来訪
「まぁ……礼儀正しいのね。あなたが、ヘイル?」
ミカエルの声音は、ふんわりとした絹のよう。
決して命じず、ただ世界を包むような話し方だった。
「ほんと、昔のルシファーによく似ているわ」
彼女の指先が、ひらりと空を撫でる。
どこにも繋がっていないのに、この場所に居ることが当然であるかのようだった。
──この場所は、ルシファーですら見つけられぬはず。
ヘイルは、瞬間的に悟った。
これは面倒な気配だ。
なぜか本能がそう囁いた。
何が嫌というわけでもない。ただ、この存在は、関わると危険だ──
「……失礼」
彼は、影のようにすっと姿を消した。
第四節 娘の到来
「……逃げたか」
ミカエルは、くすっと笑った。
まるで、よく知った旧友の癖を懐かしむように。
そのとき。
空気がふわりと揺れ、
先ほどまでヘイルがいたその空間に──もうひとりの光が現れる。
白銀の翼に三重の環──ミリアム。
「……え? あれ、ここ……」
戸惑いながら、辺りを見回したその少女は、
ミカエルを見つけて瞳を大きく開いた。
「ママ!? なんでここに──」
「私も、ヘイルに堕ちそうになったわ」
ミカエルの笑顔は、からかいに似てやわらかい。
「ママっ!ずるいっ!」
ミリアムが頬を膨らませる。
「あらまぁ……」
ミカエルの指が娘の頬をつつく。
静かな空間に、天使の母娘の笑い声がやわらかく響いた。
第二章 母娘のひととき
第一節 ふたりの温度
結界の中、風も時もない地の底。
そこに、母と娘の静かな光が揺れていた。
「……で、ほんとに? ママ、ヘイルに堕ちそうになったの?」
ミリアムは腰を下ろし、スカートの端を軽く広げながら、膝を抱えた。
目はきらきらと期待に満ち、でも少し不満そうで。
ミカエルは、そんな娘を見て微笑む。
「“堕ちる”というのは、何かを求めて、自分の輪郭が溶けることよ」
「ねぇ、答えになってない!」
「そうかしら?」
ミカエルは銀の髪を軽くかきあげ、笑った。
その仕草はどこまでも穏やかで、
それでいて“絶対者”の重みを包み隠すように柔らかかった。
⸻
第二節 触れなかった手
「……ママは、何を感じたの?」
ミリアムがふと目を伏せた。
そして、自分の胸元にそっと手を置く。
ミカエルは、わずかに瞳を細める。
「“感じた”というより、“触れなかった”と言うべきね」
「触れなかった?」
「彼は……まるで、風の影。
すぐそばにいるのに、決してこちらには届かない」
「……でも、私は感じたよ。ベルゼブブおじさまも、バールも、サタンさえも感じなかった気配を」
「ええ。だからこそよ」
ミカエルは娘に向き直る。
「あなたが彼に気づけたということは、
あなたの魂が、彼と“重なってしまった”のよ」
ミリアムの息が、わずかに揺れる。
第三節 嫉妬の色
「でも──」
ミリアムはぽつりとつぶやいた。
「……ママの方が、先に会ってたんだね」
その声は、ほんのわずか、寂しさを帯びていた。
手のひらを膝の上でぎゅっと握りしめる。
ミカエルは肩をすくめるようにして微笑んだ。
「先とか後とか、あまり意味はないのでは?」
「でも……」
「私だって、嫉妬したことあるわよ?」
「誰に?」
「ルシファーに。ずっと前。あなたが生まれる前……」
ミリアムが驚いて顔を上げる。
ミカエルは一瞬だけ、遠くを見るような目をした。
「でもね、そういう気持ちは、決して悪いものではないわ。
むしろ、あなたが“誰かに影響されている証拠”なの」
第四節 彼女たちのまなざし
「……私はね、ミリアム」
ミカエルは娘の手をそっと取った。
その手はあたたかく、母そのものだった。
「あなたが誰かを想い、心を動かし、揺れているのを見るのが、とても嬉しいの」
ミリアムは言葉を失い、ただ静かにうなずいた。
「……ママ」
彼女はぽつりとつぶやいた。
「私、ヘイルに会いたいな。もう一度、ちゃんと。逃げないでほしい」
「じゃあ、ちゃんと呼びなさいな」
「あなたの魂の声で。彼は“願い”じゃなく、“確かさ”にしか応じないわ」
「……分かった」
ミリアムはそっと目を閉じた。
胸の奥で、静かに祈るように──彼の名を、呼んだ。
けれど、ヘイルの姿は現れない。
ただ、どこかで、風が一筋だけ、揺れたような気がした。
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