『綺羅の琥珀』
神空うたう
第1話 へっぽこ商人の観察日記~多分毎日こんな感じ
「テメエ、このガキっ!その汚ねえ手で、売り物を触んじゃねえっ!」
――およそ耳に入れたくないような言葉が、耳に飛び込んできた。
声の主は確認するまでもない。けど、一応確認しておこう。私は声のする方に目をやった。目の前、ぼろぼろの敷布のど真ん中。小さな王国の小さな王様でございと言わんばかりに胡坐をかいている男に。バジェに。
「汚したり壊したりしたら、お前が買い取れんのか!?ガキの小遣いで買えるようなチャチいもんじゃねえんだぞ!?」
この、砂埃の舞う青空市場で売りに出される程度の商品にどれほどの価値があるのかとは思うけど、まあ、その辺は言い値だしね。たとえ値段が銅貨一枚であろうと誰も欲しがらない物でも、バジェが金貨十枚といえば、金貨十枚の価値は出るのだ。
……あの、よくわからないものにいくらの価値をつけたのか知らないけど。
多分、何かしらの鉄器が、魔法の熱で溶けて固まり直しただけの鉄クズだろう。わけのわからないままに値段をつけて売るより、鉄拾いの人に売り渡した方が、よほどお金になるし、世の中の為になりそうだと思う。
そんなものをいかにも意味ありげに『バジェ商会、本日の目玉』として売りに出している。そのあたりに、商人ではない私ですら、バジェの商才の無さが感じ取れてしまう。おそらく、ゴミ拾いの人に上手く言いくるめられて、そこそこの値段で買い付けてしまったんだな。で、ただの鉄クズであると気づいて、慌てて売り抜けようとしているんだろう。きっとくだんの子どもも、そのあたりを見透かしているんだろうな。
「そんなわけあるかよ。おっちゃん、どこに目ついてんだよ。だから客来ないんだよ」
生え代わりで前歯が揃っていない子にズバリ指摘されている。私が言いたくても――いや、実際言っているけど、断じてバジェが聞き入れない事を。
ただ、バジェは目利き云々よりも聞き捨てならない事があったらしい。
「お……『おっちゃん』だあ!?このガキ、俺ぁそんな年じゃあねえぞ!?そっちこそ、どこに目ぇつけてんだ!」
そこか。そこなのか。
五つ六つの子どもからしてみれば、成人している人間は総じて『おっちゃん』『おばちゃん』だろう。……多少、見た目でその判断は緩むかもしれないけれど。あのぐらいの子からなら、私だって『おばちゃん』と言われたら――いや、それは流石に早いのでは?とは思うけど、まあ、納得はする。
ましてバジェは痩せぎすで、目はギョロついていて、肌はカサカサ。目は濁っている。実年齢より年を重ねて見えるのだからなおさらだろう。
……まあ、子ども相手に本気で口喧嘩できるぐらいなので、若いと言えるかもしれない。
「おっちゃんはおっちゃんだろー?」
「うっせえ!どこがだ!?一回、向こうの井戸に顔突っ込んで、目玉ぁ洗って来い!」
枯れ枝みたいな腕を振り回してバジェが怒っている。崩して巻いているターバンの端が、その動きに合わせてぴょんぴょこ跳ねていた。左右に敷布をひいて市場で商品を売っている、バジェと似たり寄ったりなみすぼらしさのある崩したターバン姿の『小さな王様』こと店主達は、『今日は面倒なのと軒を並べる事になった』と、眉をひそませている。
ご愁傷様だよね。私でも嫌だよ。
ともかくバジェはその子ども相手に、胡坐をかいたままではあるけれど、手を振り回し、上体を反らし――と大仰なリアクションを見せている。祭りの日に街にやってくる小さな劇団のお芝居みたいだ。ただ、あれは人だかりに囲まれても、たとえ声が届かなくても、広場の舞台からでもある程度話の筋がわかってもらえるようにしている演技なんだよね。
目の前でされると邪魔。たいそう邪魔。このうえなく邪魔。
身振り手振りだけで十分うるさいのに、その上バジェのガラついた声まで上乗せされるんだから、視覚、聴覚、あとなんか色々うるさくてたまらない。青空市場で人の目は引くけれど、それは絶対商売には繋がっていない。
子どもは、バジェの身振りや話しぶりを真似してバジェを煽っている。完全におちょくられている。いい大人が、なんて事だろう。
「『テメエ、うっせえぞ、このジジイ!』」
「テメエ、言うに事欠いて、今度はジジイだと!?ガキだと思って容赦してやっていたのに――ああそうかよ、もう遠慮はねえぞ!?」
遠慮がなくなるとどうだというのか。まさかあんな子どもに手をあげないでしょうね?……バジェの場合、子ども相手でも腕力勝負で勝てるか怪しいけど、流石にあのぐらいの子どもなら勝てると思う。いくらなんでも本気ではないだろうとは思うけど、流石に見ていられない。荷馬車の縁から腰を浮かせ歩みを進めようとした私だったけど、くいと引きとめられた。
トランディオ――荷馬車の馬が、私の上着をひいて止めたのだ。
……上着の端を加えたまま、長くて厚い睫毛を軽く伏せ、ぷるぷると短めの首を振っている。トランディオは賢い馬だ。『放っておいて大丈夫』という事だろうか。けど、子ども相手に口喧嘩どころか手まで出し始めると、流石に外聞が悪い。いや、外聞以前の問題だ。トランディオの鼻先を撫でて向かおうとするが、やはり止められる。上着のフードが脱げそうになり、慌てて押さえた。
私が荷引き馬のトランディオとそんなやりとりをしている間も、口喧嘩(今のところは)は、続いていた。
「おっちゃん、いいのか?おれは将来の『お得意様』になるかもしれないんだぞ?」
「ほお、そうかい。だったらいいなあ?……将来はどうあれ、今のお前は銅貨一枚持ってるかも怪しいクソガキだ、クソガキ!」
……絶対客商売で口にされる事のない言葉が出てくる。この青空市場はそれほどお上品な場ではないにせよ、あまりに酷い。目も当てられない。
「……将来はともかく、今、お得意様になるかのーせー?のある客はどうなんだよ」
「ああん?」
『ああん?』って。ああんって何よ、バジェ。いくら子どもだからって――むしろ子ども相手にそれはどうなの。
「おれが母ちゃんに、おっちゃんがどんな客あしらいをしたか言ったら、どうなると思う?……おれの母ちゃん、お喋りだぞー?夕方の、一番客が増える時間を迎える前に、この街のおばちゃん達みーんなに、おっちゃんの事が広まるぞ?」
バジェが体を強張らせた。客商売において、主婦を敵に回すのは死活問題だというのは、流石のバジェも理解しているようだった。しかし今さら怒りの矛先をどう収めたものか、みたいな感じも見て取れる。バジェのプライドなんて、そんなたいそうな物とも思えないけど。さっさと笑顔で客商売をすればいいのに。
そこに、大きな体をゆさゆさ左右に振り振りやってきた女性がいる。
「アンタ!まーたうろちょろして!余計な物は買わないよ!」
「母ちゃん!」
「お母様だと!?」
直前の脅しが聞いていたのか、バジェがあぐらのまま背筋を正した。
「……よそもんをからかうのはおよしって、いつも言ってるでしょ?」
「だって、母ちゃん達のお喋り、長いんだもん」
お喋りなのは間違いないらしい。まあ、娯楽といえばその程度のものだ。主婦は買い物を子どもに渡し、ちらと目の前の敷布に広げられた品ぞろえを確認したようだった。……バジェはわかりやすくへりくだっている。
「お母様……いや、奥様。本日のお買い物は、お済みで?こ、これも何かのご縁。我が『バジェ商会』で、お買い物はいかがでしょう?」
どんなご縁かはわからないけれど、まあ、悪くはない滑り出しだ。
あの子にバジェが拳骨をくらわす恐れはなくなったようなので、私は肩の力を抜く。上着を咥えて止めていたトランディオがパカリと顎を開いた。やっぱりトランディオは賢い馬だ。……本当の名前は『ポンすけ』らしいけど。見た目は確かに『ポンすけ』っぽい感じだけど、この賢さは『トランディオ』という名こそふさわしいと思う。
ともあれ、私はバジェの商売が上手くいくのを願う事にした。……多分、無理だとは思う。
「……ここは、何屋なんだい」
主婦の言い分はもっともだった。バジェの店は、バジェのひらめきで仕入れたものが並んでいる。つまりはろくでもないガラクタとわけのわからないものだ。旅商人だから、生ものなど足の早いものは取り扱わない。
「食べ物も取り扱ってますよー?干し肉に、小麦!」
バジェが敷物の片隅から引き出してくる。主婦はそれを見ていた。
「この干し肉、何の肉だい?」
「なんっ……の?」
そこで口ごもるのは、絶対にいけない。
一応食べられる動物の肉ではある。そこで出自を誤魔化すのは、誠実さに問題はあるが、商人ならよくやる事だ。正直に何の肉かを白状してもいいけれど、それならそれで滋養が云々と、言い抜けることはいくらでもできたはずだ。
しかし、口ごもった時点でアウト。完全に主婦の興味はそれた。バジェが慌てて言い募るが、もう遅かった。
小麦の方を見る。粒ぞろいや多少の虫食い程度、私達は気にしない。ただ、先ほどの干し肉の件がある。主婦の目は慎重だ。
「……いくらだい」
一応、お眼鏡にはかなったようだ。
「奥様素敵!一袋銅貨五枚!」
さっさとバジェが小さな麻袋に詰め替えようとしている。しかし、主婦は顎に手をやった。
「粉挽きがされてないねえ」
「そ、その分長持ちしますよ?」
「粉挽きに持っていけば、嵩はずいぶん減るだろ。手間もかかる」
さあ、値引き交渉だ。バジェはどこまで食い下がれるだろうか。
「て、手間はかかりますがね……」
「アンタらはここで一日座っているだけでいいだろうけど、アタシらは忙しいんだよ。そのアタシらに手間をかけさせる意味、分かってんのかい?」
「いや……それは……」
バジェがへにょへにょし始めた。バジェの倍ほどはあろうかという奥さんは、意外なほど機敏にしゃがむと、バジェが準備していた小売り用の麻袋のうち一枚を取った。さっさと指で縦横の寸法を測った。
「これ、小さくないかい?横は指一節、縦なんて、指二節近く足りないよ?」
「――っ!ふ、袋も、出来不出来がありますからねえ!?たまたまですよ!」
じゃあそっちの袋を――と主婦が手を伸ばそうとしたところで、バジェが残りの袋を自分の後ろにすべて仕舞った。失策もいいところだ。多分全部、規格の大きさより小さいのだろう。まあ、そのあたりもよくある手ではあるが、誤魔化し方があまりに無様だった。
「ちなみに……この小麦、どこ産だい?」
「……ど、こ……?」
だから!口ごもっちゃ駄目なんだって!子ども相手にはペラペラ舌が回っていたバジェだったけれど、商売になるとからっきしだった。恋する乙女みたいにもぞもぞ身をくねらせ、あいまいにうへへと笑うばかり。もちろんそれで『お買い上げ』となるわけがない。
「帰るよ!」
「わかった、母ちゃん!」
子どもは荷物を抱え直すと『やっぱおれの母ちゃんすげえや!』と目を輝かせ、バジェに対して得意気にふふんと笑った。そして、でっぷりどっぷり歩き去る母の後に付き従い、人ごみにまぎれていった。
バジェは子どもとの口喧嘩で人目を集めていたところに主婦とのやりとりを目撃されたわけで、そもそも訳のわからない店で客が来なかったところに『どこの何を売っているのか怪し気な店』というレッテルまで張られた。もう今日の客は無理だろう。
バジェはあぐらをかいたまま手を突っ伏していた。崩れたターバンの端が、敷布についている。
それに――いい頃合いかもしれない。
歩み出す私をトランディオ――
「うけけ?」
……だめ?かっこいいよ?『トランディオ』の方が。
「ぶひひん……」
なら仕方ない。――『ポンすけ』。ポンすけは止めなかった。可愛い顔をしているけれど、本当にポンすけは賢い。人目もあるので、フードを深くかぶれているかどうか、もう一度確かめておく。
「バジェ、今日はもう片付けようよ」
バジェが私を見た。
「何言ってんだよ、エーラ。まだ昼を少し過ぎたところだぞ?こっからが勝負だろ。少なくとも、小麦は売れるんだ」
確かに、この店でまともに売れそうな物といえば、それしかなかった。たまに干し肉も売れるけれど、それはもう値下げ交渉でバジェがコテンパンにやられ、捨て値にしても酷すぎる値段だった。
「けどさ。雨が降るかもしれないよ?片付けるのも時間がかかるでしょ?」
私は、『本日の目玉』を見た。あの鉄塊。バジェが脂汗を流しながら動かしていた。あれを荷馬車に積み込むのはコトだと思う。……よほど鉄拾いに交渉をした方が、今後のためにもいいと思うけど。
「雨ぇ?」
バジェが空を見上げた。とても雨気があるような感じはない。でも、私には『わかる』のだ。
「そうだよ。せっかくの小麦が濡れたら大変だよ。いくら小麦ならいくらでも準備できるっていってもさ。早く片付けて、早めにご飯食べて――」
「……ああ、なるほどな?そうかそうか」
バジェがにたりと笑った。……違う。『そういう事』ではない。けど、バジェを動かすためなら、誤解させたままにしておこう。
「変に焦って片付けて、足でも挫いたら大変でしょう?」
ツボに入った何か。干からびた何か。瓶詰の何か。……ともかく訳のわからないものを、私は順番に荷馬車に積み込み始める。今度は、何だろう。何かが巻き付いた何かを持ちあげた。
――と、そこで、青空市場の端から騒ぎの声が聞こえた。どこかの店で、コソ泥でも出たのだろうか。馬鹿な事をする人もいるものだ。うちの店でなくてよかったと、近くの店主達は安堵の表情を見せた。しかし、声が広がるにつれ血相を変える店主がそこここで見え始める。バジェもそうだった。
「抜き打ちだー!」
騒ぎの中心から駆けてくる男がそう口にしたところで、バジェを含め、何人かの動きが慌ただしくなる。
「――販売許可証の、抜き打ち検査か!?」
バジェの声が上ずっていた。
知ってる知ってる。こういう市場では、ちょっとした参加費を払ったり、その『販売許可証』が必要だったりするんだよね。それを払わずに勝手にお店を広げていると、怒られて、何倍もの罰金を払ったり、鞭打ちされたりするんだとか。それっぽっちのお金を惜しんで馬鹿を見る人なんているんだ。
そう私は苦笑していたが――
え、待って。
何でバジェ、そんなに慌ててるの。
風の魔法でもかかっているみたいなスピードで、バジェが荷物を荷馬車に積み込んでいる。『本日の目玉』だった鉄クズは――バジェはしばらく考えた後、力いっぱい蹴り飛ばして、敷物の上からごろりと転がした。残ったこまごまとしたものを、敷物ごと巻いて荷馬車に放り込む。多少、『何かの何か』が、ばらばらと乾いた地面に落ちていくが、拾う気はないらしい。
「えっ、バジェ、どういう事!?」
「取ってねえんだよ、許可証!」
「うっそでしょう!?」
早く馬車に乗れとバジェに手をひかれる。
「でも、前の街の時は、持ってたじゃない!」
「地域が違うんだよ!そもそもあれだって、期限切れだ!……くっそ、この街はザルだって聞いてたからいけると思ったのに――」
と、そこでバジェは先ほど蹴り飛ばした鉄塊に足を取られた。私が踏みとどまったおかげでバジェは顔に芸術的なマダラを作らなくてすんだけど、代わりに足を挫いたらしい。あひゃん!と、情けない声が響いた。
「ちょっと、バジェ、大丈夫!?」
私の手を掴んだままへたり込みつつあるバジェを見る。……抱えあげる事もできなくはないけれど。そう思っていると、ひょいとバジェが宙に浮いた。魔法のようだったが、違う。様子を見守っていた荷引き馬のポンすけが、身を乗り出し、バジェの首根っこを咥えてくれたのだ。そのままぐわんと首を振り、バジェを御者台にすとんと放り落とした。それを見て、私は慌てて荷馬車の荷台に飛び乗る。
それと同じタイミングでポンすけが歩みを始めた。
脱兎のごとく――ではなく。
ぽっけぽっけとごく当たり前に。
ごく普通に。『今日は思ったより多く商品が売れたものだから、早めに店じまいですよ』そんな感じでさりげなく。
そして、ほんの僅か離れた店に差し迫ってきていた街の役人の横を素通りする。基本的には順番で『販売許可証』や『臨時出店参加料の領収札』を確認しているようだ。けれど、慌ただしく店じまいを始めている不審な店にはいくらか順番をすっ飛ばして点検に入り、案の定未払いだった店主達を、縄でふん縛り始めている。
バジェは挫いた足の痛みをこらえ、素知らぬ顔でポンすけの手綱を手に、青空市場を通り抜けようとしていた。
ほっと一息。
私は何も悪くないけれど。
ただ、バジェのせいで怒られるのは面倒だ。そう思っていたところにそよぐ風。砂が舞う。あっと思うとフードが外れた。まあいいか。もう。
「おい、そこの馬車――」
役人の声だった。役人の一人が、目ざとくこちらを見つけたらしい。手に持っている木の棍棒が、やたら磨かれているのが目に入った。
ドキリとしたが、それは私よりも、バジェの方だっただろう。『何の御用でしょうか、旦那』と、役人に笑いかけているが、完全に声が上ずっていた。おしまいだ。しかし、その役人が近づこうとしてきた時に、馬車の中にいた私に気づいた。そして、ぎょっと目を見開く。顔を顰め少し考え――そうしていたところで、後ろで大きな声があがる。どうやら、バジェと同じく許可証や参加費を払っていなかった店主が、大騒ぎを始めたらしい。役人はこちらに関わりたくなかったのもあって、そちらの加勢に入るようだった。距離を稼いでいく私達の荷馬車の背後で棍棒が風を薙いで、鈍い音が響くのが聞こえた。申し訳ないけど、肺から空気が漏れるような悲鳴をあげたのが、バジェじゃなくてよかったと思った。
「……あー!久々に『こりゃ死んだ』と思ったな!?」
しばらくして街を出たところで、バジェがようやくのびのびとした声をあげた。
「雨はないみたいだけど、店じまいを始めていてよかったな。まあ、そこは感謝してやるぜ、エーラ!」
御者台から身を捻り、バジェが偉そうに私を労った。が、次の瞬間いててと身を折った。捻った足が痛むのだろう。そして、重くて積み込むのを諦めた鉄クズの事を惜しみ始めた。損切りして鉄クズ拾いに売り渡せば、三日分の食料にできたのに――とかどうとか。……いくらであの鉄クズを仕入れてきたのかは、絶対に言わなかった。こっちも、聞きたくない。怖くて。
「……足、大丈夫?」
「あー?まあ、痛みはするけど、後で薬草を揉んで貼り付けときゃあ、明日にゃマシになんだろ。それより……急に移動する事になって、ごめんなー、ポンすけー。びっくりしたな―?」
自分の足の痛みはそこそこに、ポンすけの方を心配している。ポンすけは馬にしては小さめの体で、ぽっけぽっけと力強く荷馬車を引きながら『うえけけけ』と機嫌よく鳴いている。何が『そうかそうか』なのかはわからないけれど、バジェは今日の損を、それほど気にしていないようだった。……『いつもの事』だからだろう。これで『才気あふれる旅商人・バジェ様』を自称しているのだから、たいしたものだと思う。こんな事が『いつもの事』なのにね?まともな神経で名乗れることではない。
それでも、足を挫いたのは『いつもの事』ではないはずだ。
「……バジェ、ごめんね?」
荷馬車の縁から身を乗り出し、御者台のバジェに囁いた。
「は?何がだよ」
私は、わかっていた。『視えて』いたのに。
雨足を気にしての店じまいではなかった。でも、『慌てて店じまいを始めるバジェ』と、そのせいで『足を挫くバジェ』を。
そんな事をどう説明すればいいのかわからないけれど。
「よくわかんねえけど、魔物や野盗が出たら頼むぜ?エーラ、お前はそのために置いてやってるんだからな!」
「うん……」
相変わらず偉そうに言ってるなあとは思うけど、バジェの足元を見ると、いつもの軽口は返せなかった。赤く腫れ始めている。
「んっだよ。張り合いがねえなあ……ああ、そうか!急に街を出る事になったから『お楽しみ』が無くなったと思ってんだな!?安心しろ、エーラ。足を挫いたぐらいで俺が――」
「前!見て!」
バジェの心配をして損した。ホント損した。
この男は、殺したって死にそうにない。死にそうにない、はずなのに――
……私は荷馬車の中から、空を仰いだ。澄んだ空は青。わずかに視線を落とせば、見晴らす台地は黄土にわずかなかさつく黄緑。
目の前の御者台には痩せぎすのへっぽこ旅商人、バジェ。
――『愛する私の為に、死ぬ男』だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます