Sigils ― 静かな世界のつくり方 ―

@sora-venn

プロローグ

自分が作ったものが、こんな場所に呼ばれる理由になるとは思っていなかった。

仲間がほしかっただけだ。

ひとりでも理解し合える相手がいればいい。

その願いの代わりに、小さな仕組みを組んだだけだった。

世界を変えるつもりなど、本当にひとつもなかった。


内閣府の廊下は、やけに静かに感じられた。


湊の歩幅は落ち着かない鼓動に合わせて揺れ、

横を歩くルカの存在がようやく呼吸を保たせてくれていた。

少し後ろには、高城が控えめに続いている。


理由は単純だった。


湊が「日本語が不安だから、一緒に来てくれ」と無理を言ったのだ。

高城自身、この状況を完全に理解しているようには見えなかった。

職員に案内され、会議室の扉の前で立ち止まる。

貼られれたプレートを見た瞬間、湊の喉がつまった。


「内閣府 情報通信技術 Praxis対策室」


Praxis……


最近になって世界のあちこちで耳にするようになった、自分の技術を指す総称。

それが、こんな形で日本政府の壁に刻まれているとは思わなかった。


扉が開いた。


白い蛍光灯の下、スーツ姿の官僚がひとりだけ座っていた。

書類を雑に積み上げ、面倒くさそうにため息をつく。


「ああ、どうも。

お手数おかけします。

外務省から“ちょっと聞いてこい”と言われましてね。

 形式的な確認なので、気楽に構えてください」


官僚は資料をめくりながら、眉間を軽く寄せた。


「ええと……この “プラクス”…でしょうか?

 あなた方が作った、このシステムについて、少し伺いたいんですが」


湊の胸が強く脈打った。

(……プラクティスだ。なんでそんな読み方を……?)


官僚は、その言葉の重さすら知らないように、淡々と読み上げた。



この時、この場にいる誰ひとりとして——

“Praxis” という言葉が後にどれほどの意味を持つことになるのかを想像していなかった。


官僚も、高城も、湊自身も。


官僚は別の書類をめくりながら、

あくまで事務作業の延長といった調子で続けた。


「海外で、ちょっと“よくない変化”が出てるとか何とか……。

 ご存じですか?」


突然の言葉に、湊の呼吸が浅くなる。

「い、いや……知らないです。そんな……」


声が震え、喉が痛いほど乾いている。


その瞬間、ルカが一歩前に出た。

「誤解だと思います。もともと世界を動かすような技術ではありません」

と、落ち着いた声で説明を始めた。


官僚は気のない相槌を「へぇ、そうなんですね」と返すだけだった。


湊にはもう二人の声が聞こえなくなっていた。

鼓動だけがやけに大きく響き、

言葉がすべて膜の向こう側で反響しているようだった。


高城がふと湊の横で何か言いかけた気配があった。

けれど湊にはそれすら届かなかった。


会議の終わり際、官僚は椅子を引きながら気楽な調子で言った。

「ま、特に問題なさそうですね。

日本としては“問題なし”で整理します。

海外向けにもその方向で。

今日はありがとうございました」


……問題なし?


何の確信があって?

湊の胸は沈むのに、官僚の言葉は軽かった。

それが余計に不安を濃くしていった。





夜。


湊は自宅の椅子に沈み込み、

暗い部屋の中でようやく深呼吸ができた。


官僚から聞いた「よくない変化」という曖昧な言葉だけが、

頭の中でぼんやり反響している。


意味は掴めない。


でも胸の奥では、

じわじわと恐怖の形だけが育っていた。


——仲間がほしくて作っただけなのに。

——世界を変えるつもりなんて、本当にひとつもなかったのに。


湊は端末を開いた。


画面の淡い光が、静まり返った部屋を照らす。

何が正しくて、何が間違いなのか。

自分の作った仕組みが世界にどう作用しているのか。


湊には分からなかった。

むしろ、分からないことが怖かった。


だからこそ、たった一行だけ——

胸の底に沈んでいた願いだけを打ち込んだ。


―世界を壊さないで―


Enterキーを押す。


短い音が、乾いた空気の中に落ちた。

画面は何も返さない。

警告も、確認も、応答もなかった。

ただ、静かなままだった。


何かが変わったようには見えない。


部屋の空気も、世界の景色も、

一つとして動いた気配はなかった。


湊はしばらく画面を見つめたまま、

何をしたのかも、何が正しいのかも分からず、

ただ深い静けさの中に身を沈めた。


この一文が、

後に世界のかたちを大きく変えていくことを、

この時は誰も知らない。

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