ロンドン・アネクドート ~臆病な探偵と、夜霧の処刑人~

むめい

第1章 霧の都の二重奏


 ロンドンの雨は、古い映写機のノイズに似ている。

 絶え間なく降り注ぎ、街の輪郭を灰色にぼやけさせ、人々の足音を湿った雑音の中へと吸い込んでいく。

 王立セント・メアリ女学院の図書室は、そんな憂鬱な雨の日における、アリスティア・ヴァンスにとって唯一の聖域だった。

 天井まで届く重厚なオーク材の本棚。古紙とインク、そして微かに漂うラベンダーのポプリの香り。ここには、彼女が苦手とする他人の悪意や隠し事が入り込む余地は少ない。

「……ふぅ」

 アリスは窓際の席で、分厚い詩集のページをめくりながら、小さく安堵の息を吐いた。

 アッシュブラウンのボブカットが、少し俯いた拍子に揺れる。制服の上に羽織った少し大きめのベージュのカーディガンは、彼女の華奢な体をすっぽりと包み込んでおり、まるで外敵から身を守る蓑虫のようにも見えた。

 彼女は、ヴァンス伯爵家の令嬢である。

 だが、その振る舞いに貴族特有の傲慢さは欠片もない。むしろ、廊下ですれ違う下級生にさえ道を譲り、ごめんなさいと小声で謝ってしまうような、極めて控えめで――悪く言えば、気弱な少女だった。

(このまま、誰も来なければいいのに)

 文字を目で追いながら、アリスは心の中で願う。

 この静寂がずっと続いてほしい。紅茶を飲み、本を読み、普通の女子高生として一日を終えたい。

 けれど、世界はそれを許さない。

 彼女の瞳には、生まれつき呪いのような力が宿っているからだ。

 Historic(史実級):『諮問探偵「シャーロック・ホームズ」』

 かつてこの国で最も有名だった、架空にして真実の探偵。その観察眼と推理力を継承した正規能力者、オーサー。それがアリスの、もう一つの顔だった。

 彼女がその気になれば――いや、その気がなくとも、彼女の視界は勝手に真実を暴いてしまう。

 友人の笑顔の裏にある嫉妬、教師の袖口についた不倫相手の香水、床の汚れから読み取れる昨夜の清掃員の怠慢。

 パズルのピースが勝手に組み上がり、見たくもない正解が脳内に雪崩れ込んでくる感覚。それはアリスにとって、頭痛の種でしかなかった。

 だから彼女は本を読む。虚構だけが、唯一、裏読みする必要のない安全な世界だからだ。

 だが、その安息は唐突に破られた。

 ギィ、と重い音を立てて、図書室の扉が開かれる。

 室内の空気が一変した。湿度を含んだ冷たい風と共に、革靴の硬質な足音が響く。

 図書委員の生徒たちが息を呑み、さざめきが止まる。

 アリスはビクリと肩を震わせ、恐る恐る本の上から顔を覗かせた。

 そこに立っていたのは、全身を黒いスーツで固めた二人の男だった。

 胸元には、王冠と剣をあしらった銀のバッジ――王立異能管理局の紋章が鈍く光っている。

「……アリスティア・ヴァンス様ですね」

 男の一人が、事務的で冷徹な声で告げた。

 アリスは慌てて本を閉じ、椅子から立ち上がろうとして、膝を机にぶつけてしまった。

「あ、痛っ……! は、はい、私です……!」

 涙目になりながら直立する姿は、歴戦の能力者には程遠い。ただのドジな女の子だ。

 しかし男たちは、そんな彼女の様子に眉一つ動かさなかった。彼らにとってアリスは、人間ではなく、国が管理する高性能な捜査機械に過ぎないのだから。

「緊急の解読要請です。イーストエンド第4地区にて、未登録能力者、パイレートによる殺人事件が発生しました」

「え……さ、殺人……ですか?」

 アリスの顔から血の気が引いていく。

 殺人。一番聞きたくない単語だ。

「あの、でも、今日はこれから補習が……それに、私みたいな子供が行っても、足手まといになるだけで……」

「ヤードの鑑識課では手に負えません。貴女の眼が必要です。拒否権がないことはご存知のはずですが」

 男の言葉は、有無を言わせぬ命令だった。

 周囲の生徒たちが、遠巻きにアリスを見ている。同情の眼差しと、少しの好奇心。

 あの子、やっぱりアレなんでしょう?

 伯爵家の……政府の犬……。

 ひそひそとした噂話が、アリスの鋭敏すぎる耳にははっきりと聞こえてしまう。

 アリスは唇を噛み締め、俯いた。

 抵抗しても無駄だ。この国において、逸話を宿したオーサーは、その能力を国に捧げる義務がある。

「……わかり、ました」

 消え入りそうな声で、彼女は答えた。

 鞄を胸に抱きしめる手が、小刻みに震えている。

「行きます。……でも、一つだけお願いしてもいいですか?」

「なんでしょう」

「あ、あの……あまり、怖い現場じゃないといいなって……。私、血を見るの、本当に苦手なので……」

 上目遣いで怯えながら訴えるアリスに、男は鼻を鳴らし、憐れむように言った。

「善処しますが、期待はしないでいただきたい。今回のホシは――Folklore(伝承級):『黒妖犬「ブラックドッグ」』ですから」

「……っ」

 アリスは小さく息を呑んだ。

 ブラックドッグ。不吉の象徴として知られる、古き良き英国の怪異。

 ただの人間相手の喧嘩ではない。異能と異能がぶつかり合う、本物の殺し合いの場だという宣告だった。

 逃げ出したい衝動を、彼女はぐっと飲み込んだ。

 男たちの冷たい視線と、遠巻きにする生徒たちの好奇の目。ここに自分の居場所はもうないのだと悟る。

 アリスは震える手で読みかけの詩集を鞄にしまうと、観念したように革の鞄を抱きしめた。

「……ご案内、お願いします」

 男たちが無言で踵を返す。アリスはその背中を追って、重い足取りで歩き出した。

 背後で図書室の扉が閉まる音が、まるで日常との決別を告げる銃声のように響いた。


 車が停止したのは、イーストエンドの第4地区、廃工場が立ち並ぶ旧港湾エリアだった。

 窓の外に広がるのは、セント・メアリ女学院のある高級住宅街とはまるで違う世界だ。錆びた鉄と腐った水、そして微かに焦げたような臭いが雨に混じって漂っている。

 運転手がドアを開ける。湿った冷気が車内に流れ込み、アリスは思わず身震いをしてカーディガンの前をかき合わせた。

「到着しました。降りてください」

 事務的な催促に背中を押され、アリスは泥濘んだ地面に革靴を下ろした。

 目の前には、黄色い規制線テープが張り巡らされ、数台のパトカーと覆面車両が赤色灯を回している。

 雨合羽を着た警官たちが忙しなく動き回る中、一人の大柄な男がこちらに気づいて歩み寄ってきた。ロンドン警視庁の警部だ。無精髭を生やし、見るからに機嫌が悪そうに煙草を噛んでいる。

「遅いぞ、管理局。現場の鮮度が落ちちまう」

「道路が混んでいましてね。……『解読機』は連れてきましたよ」

 エージェントが顎でアリスを指し示す。

 警部はアリスを見下ろし、呆れたように鼻を鳴らした。

「はっ、冗談だろ? こんなお嬢ちゃんがか? 制服にカーディガンなんぞ羽織って、ピクニックの帰りか何かかよ」

「ヴァンス伯爵家の令嬢ですよ、警部。言葉を慎むように」

「けっ、貴族様かよ。どうせ親のコネで登録されただけの飾りだろ。おい嬢ちゃん、死体を見ておしっこ漏らすなよ?」

 粗野な言葉を投げつけられ、アリスは顔を真っ赤にして俯いた。

 言い返したいわけではない。ただ、自分が場違いであることは誰よりも彼女自身が理解していたからだ。

「……す、すみません……お邪魔します……」

 蚊の鳴くような声で謝罪し、アリスはエージェントに促されて規制線をくぐる。

 一歩踏み込むたびに、空気が重くなる。

 血の匂い。

 それは鉄錆の匂いに似ていて、もっと生暖かく、粘り気のある不快な芳香だ。

 路地裏の奥、ゴミ集積所の陰に、それはあった。

「う……」

 アリスは口元を手で覆い、視線を逸らそうとした。

 そこにあるのは、かつて人間だった肉の塊だ。壁には爪痕のような深い傷が刻まれ、周囲には中身が派手にぶち撒けられている。

 人間が人間に対して行える暴力の許容量を遥かに超えていた。これが異能による殺傷なのだと、嫌でも理解させられる。

「さあ、アリスティア様。仕事を」

 エージェントが耳元で冷たく囁く。

 アリスは首を横に振った。見たくない。こんなもの、直視したくない。

 だが、彼女の意志とは無関係に、脳の奥にあるスイッチが勝手に切り替わる。

 Historic(史実級):『諮問探偵「シャーロック・ホームズ」』。

 起動。

 世界の色が褪せた。

 色彩豊かな現実が、無機質な情報の羅列へと書き換わっていく。

 雨音が遠ざかり、代わりに思考の歯車が噛み合う音が脳内を支配する。

 アリスの瞳孔が開き、怯えの色が消え、硝子玉のような冷徹な光を宿した。

(被害者は30代男性。死後2時間。死因は失血死ではなく、頸椎の圧断。凶器は刃物ではない。この断面の粗さ、引きちぎられた痕跡。獣の爪。サイズは……約15センチ)

 アリスはふらふらと死体に近づいた。

 汚れるのも構わず、泥の中に膝をつく。

 警部が「おい!」と声を上げようとしたが、エージェントがそれを手で制した。

(現場に残された足跡。右足が深く沈んでいる。犯人は負傷している? いや、違う。これは重心の癖。左手に重い何かを持っているか、あるいは……左半身が肥大化している)

 視界に赤いラインが走る。

 血痕の飛散角度。壁の傷の高さ。残された獣臭。

 情報がパズルのピースとなって宙に浮き、自動的に組み上がっていく。

 アリスの口が、自分の意志を離れて勝手に動き出した。

「……犯人は、身長190センチ前後の男性。ただし、変身時は2メートルを超えます」

 淡々とした、感情のない声だった。

 警部が目を見開く。

「あ? なんだって?」

「逃走経路は北。マンホールの蓋に泥がついている。地下水道を使って移動しています。……彼は、非常に腹を空かせている」

「腹だぁ? なんでそんなことが分かる」

「死体の……肝臓だけが、綺麗に抜き取られているから」

 アリスが指差した先。内臓の山の中に、確かに特定の部位だけが欠損していた。

 警官たちがざわめき立つ。

「おい、鑑識! マンホールを調べろ!」

「は、はい! ……警部! 蓋の裏に新しい爪痕があります! 北へ続いています!」

 報告を聞いた警部が、信じられないものを見る目でアリスを振り返った。

 アリスの瞳から、ふっと硝子のような光が消える。

 能力の解除。同時に、現実の色彩と、強烈な吐き気が戻ってきた。

「うぷっ……」

 アリスは口を押さえ、その場にうずくまった。

 自分の口が紡いだ「肝臓が食べられている」という事実に、後から遅れて戦慄したのだ。

「あ、あの……ごめんなさい……私、もう……」

「……北の地下水道だな? 排水処理場へ繋がっているはずだ。総員、追うぞ!」

 警部の号令で、現場が一気に動き出す。

 先ほどまでアリスを馬鹿にしていた警部だが、今はその表情に明らかな畏怖が混じっていた。

 化物を見る目。

 アリスはその視線に傷つき、小さく身を縮こまらせた。

「行きますよ、アリスティア様。案内していただきます」

 エージェントはアリスの肩を掴み、立たせた。

 まだ休むことは許されない。

 アリスは涙目でマンホールを見つめた。あの暗い穴の底に、人を喰らう怪物が潜んでいる。

 そこへ自ら降りていかなければならない恐怖に、足がすくんだ。

「お父様……お母様……」

 助けを求める声は、雨音にかき消された。

 彼女は警官たちに囲まれ、暗い地下への入り口へと連れて行かれる。

 それはまるで、羊が自ら狼の巣穴へと歩いていくような光景だった。


 地下水道への入り口となっているマンホールの蓋が開けられると、そこはもう異界だった。

 錆びついた鉄梯子が暗闇の底へと伸びている。下から吹き上がってくるのは、都市の排泄物が発酵したような、鼻が曲がりそうな悪臭だ。

「……ここを、降りるんですか?」

 アリスは梯子を覗き込み、絶望的な声を上げた。

 彼女は今日、お気に入りの革靴を履いている。制服のスカートも、先日クリーニングから戻ってきたばかりだ。

「ホシを追い詰めるためです。アリスティア様、足元にお気をつけて」

 エージェントは事務的に告げると、躊躇なく闇の中へ降りていく。

 アリスは唇を噛み、ハンカチをマスク代わりに口元へ強く押し当てた。これ以上、我儘を言える雰囲気ではない。彼女は意を決して、冷たく濡れた鉄の棒を握りしめた。

 地下空間は、想像以上に広大で、そして不快だった。

 ヴィクトリア朝時代にレンガを積み上げて作られたアーチ状のトンネル。足元にはヘドロのような汚水が流れ、壁には正体不明の菌糸が白く張り付いている。

 警官たちが掲げるライトの光が、飛び交う虫の群れを照らし出すたび、アリスは小さく悲鳴を上げて身を縮こまらせた。

「おい、こっちで合ってるんだろうな」

 先頭を歩く警部が、苛立ちを隠そうともせずに声を張り上げた。

 その声はトンネル内に反響し、不気味な唸りのように戻ってくる。

「……静かにしてください。響きます」

 アリスは眉をひそめて注意した。

 彼女の脳内では、すでに『諮問探偵』が常時起動している。

 視界に映るすべての汚れ、壁の傷、水の流れの乱れが、意味を持った「情報」として雪崩れ込んでくるのだ。それは偏頭痛のような鈍い痛みを伴う。

「右の壁……高さ150センチの場所に、新しい擦過痕があります。そこから獣の体毛が落ちて、水流に乗って奥へ……。この先、30メートルで分岐がありますが、左です」

 アリスは淡々と、しかし確信を持ってナビゲートしていく。

 彼女の後ろには、重装備の警官隊に加え、管理局から派遣された二人の男たちが無言で追従していた。彼らは「掃除屋(スイーパー)」と呼ばれる、戦闘専門の能力者たちだ。アリスのような非戦闘員を見る目は冷ややかで、ただ「道案内」として利用している空気が漂っている。

 進むにつれて、空気の密度が変わった。

 獣臭。

 それも、動物園の檻のような生易しいものではない。もっと生々しい、血と脂が混じり合った捕食者の匂いだ。

「……っ、待ってください」

 アリスが急に足を止めた。

 彼女はエージェントの背中に隠れるようにして、震える指先で闇の奥を指差した。

「います。……この先の広場。息を潜めて、待ち伏せしてる」

 警官隊に緊張が走る。安全装置を外す金属音が、静寂の中でカチャリと響いた。

「数は?」

「一匹……ですが、すごく大きいです。それに、怒ってる。空腹と、傷の痛みで」

 アリスは耳を塞ぎたくなるのを必死に堪えた。

 彼女には聞こえてしまうのだ。怪物の荒い心音や、筋肉が軋む音が。その殺意の波動が肌に突き刺さり、鳥肌が止まらない。

「ここから先は、私の仕事じゃないですよね? ……怖いのは、嫌です」

 涙目で訴えるアリスを、掃除屋の一人が一瞥した。

 彼は無愛想に顎で後方を指し示す。

「下がっていろ、お嬢様。道案内ご苦労だったな」

「ここからは大人の時間だ。制服を汚したくなければ、盾の後ろで震えているといい」

 二人の男が前へ出る。

 アリスは何度も頷き、逃げるように警官隊の最後尾へと退避した。


 静寂を破ったのは、闇を切り裂くような咆哮だった。

「グルルルルッ……!」

 懐中電灯の光が、闇の中に浮かぶ二つの赤い眼光を捉える。

 次の瞬間、黒い塊が弾丸のように飛び出した。

 巨大な黒犬。

 だが、その姿は生物としての犬の枠を逸脱していた。肩高は優に2メートルを超え、全身から黒い瘴気のような霧を噴き出している。

 Folklore(伝承級):『黒妖犬「ブラックドッグ」』

「撃てェッ!」

 警部の号令と共に、一斉射撃が始まった。

 狭い地下道に轟音が炸裂する。マズルフラッシュが闇を明滅させる。

 だが、怪物は止まらない。鉛の弾丸を分厚い筋肉と霧で弾き返し、重戦車のように突進してくる。

「ひっ……!」

 アリスは耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んだ。

 うるさい。臭い。怖い。

 銃声が鼓膜を叩き、硝煙の匂いが肺を焦がす。飛び散る薬莢が地面に落ちる乾いた音さえ、彼女の過敏な知覚神経をヤスリのように削っていく。

 怪物の爪が、前衛の警官たちに届く寸前。

 掃除屋の一人が、素早く前に割り込んだ。彼はスーツの内ポケットから、銀色に輝く十字架のペンダントを取り出し、かざした。

「展開。――不浄なる爪を通すな」

 男の声が朗々と響き渡る。

 空気が振動し、彼らの前方に半透明の光の壁が出現した。

 Historic(史実級):『聖杯の騎士「ガラハッドの盾」』

 ドォォォンッ!

 凄まじい衝撃音が響く。

 コンクリートさえ抉り取るブラックドッグの突進が、薄い光の膜に阻まれて完全に停止した。

 衝撃波がトンネル内を駆け抜け、アリスの髪を激しく乱す。

「ぐ、重いな……! おい、早くしろ!」

 盾の男が顔をしかめる。英雄級(Saga)ほどの絶対防御ではないため、衝撃までは殺しきれないようだ。

「分かっている。急かすな」

 もう一人の掃除屋が、背後から飛び出した。

 彼の手には、古めかしいマスケット銃が握られている。銃身には複雑な魔術刻印が青白く発光していた。

「地獄へ還れ、野良犬」

 Fable(寓話級):『魔弾の射手「ザ・マークスマン」』

 引き金が引かれる。

 放たれたのは、物理的な弾丸ではない。青白い尾を引く魔力の塊だ。

 魔弾は空中で生き物のように軌道を変え、怪物が回避しようとした動きを先読みして、その眉間へと正確に吸い込まれた。

 ズガンッ!

 頭蓋が砕ける鈍い音が響き、怪物の巨体が宙を舞った。

 ドサリと汚水の中に沈むブラックドッグ。痙攣し、やがて黒い霧となって霧散していくかのように動かなくなった。

「対象、沈黙」

 射手の男が銃の硝煙を吹き、冷たく告げる。

 鮮やかな連携だった。

 アリスは指の隙間からその光景を覗き見、震えながら立ち上がった。

 目の前にあるのは、無残に頭を吹き飛ばされた怪物の死骸と、それを冷徹に見下ろす能力者たち。

 これが、この世界の「正義」の執行なのだ。

(……気持ち悪い)

 アリスは胸の内で呟いた。

 怪物が怖いのではない。人間が人間ならざる力で殺し合う、この理不尽なシステムそのものが、生理的に受け付けなかった。

「終わりましたよ、お嬢様」

 盾の能力者が、ペンダントをしまいながら振り返った。

 アリスに向けられた笑顔は、どこかあざ笑うような色を含んでいた。

「怖かったかい? まあ、これが我々の仕事だ。探偵ごっこで満足しているお嬢様には、少し刺激が強すぎたかな」

 アリスは何も言い返せなかった。

 ただ青ざめた顔で頷き、自分のスカートの裾をぎゅっと握りしめることしかできなかった。

5

 地上への帰還は、逃走に近かった。

 アリスは誰の手も借りずに梯子を登り、外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 雨は小降りになり、ロンドンの街は夜明け前の深い群青色に沈んでいる。空気は冷たく澄んでいて、地下の腐敗臭を忘れさせてくれた。

「送ります、アリスティア様」

 待機していた運転手がドアを開ける。

 アリスは無言でリムジンの後部座席に滑り込んだ。革のシートの感触と、車内の静寂だけが、彼女を現実へと引き戻してくれる。

「……屋敷へ。一番速いルートでお願いします」

「かしこまりました」

 車が滑らかに発進する。

 アリスは窓ガラスに額を押し付け、流れていく街並みをぼんやりと眺めた。

 ショーウィンドウ、ガス灯の明かり、早朝の配達車。

 平和な景色だ。だが、今の彼女には、その全てが薄っぺらな書き割りのように見えた。

 ふと、膝の上のスマートフォンが震えた。

 通知画面が光る。友人たちからのグループチャットだ。

『ねえアリス、今日学校来る?』

『新作のパンケーキ食べに行こうよ』

『数学の課題写させてー!』

 日常からの呼び声。

 アリスの表情が、ようやく少しだけ和らいだ。

 彼女は泥で汚れた指先をウェットティッシュで丁寧に拭うと、画面に指を走らせた。

『行く。絶対行く。パンケーキ大盛りで頼むから覚悟してて』

 送信ボタンを押す。

 既読がつき、ふざけたスタンプが返ってくる。

 そのやり取りだけが、彼女が「普通の女の子」でいられる証だった。

 しかし、その直後。

 画面の上部にニュース速報のバナーが表示された。

 【速報:ウェスト・エンドにて新たな切断遺体発見 "ジャック"の犯行か】

 アリスの指が止まった。

 タップして記事を開く。

 現場の写真には、濃い霧に包まれた路地裏と、無残に解体された被害者のシルエットがぼかし付きで掲載されていた。

 記事には、ここ数週間ロンドンを震え上がらせている連続殺人鬼、通称「ジャック・ザ・リッパー」の仕業である可能性が高いと記されている。

「……また、出たんだ」

 アリスは独り言のように呟いた。

 Saga(英雄級)に指定されている正体不明の凶悪犯。

 神出鬼没で、目撃者は一人もいない。ただ霧と共に現れ、霧と共に殺し、霧と共に消える。

「怖いなぁ……。こんなのが近くにいるなんて」

 彼女は身震いを一つして、ニュースアプリを閉じた。

 これ以上、血生臭い話は見たくない。今日はもう十分だ。

 アリスはシートに深く身を沈め、目を閉じた。

 車は静かに、高級住宅街へ向かって走り続ける。

 窓の外では、朝霧が立ち込め始めていた。

 その白く冷たい霧は、ロンドンの街全体を優しく、そして不気味に包み込んでいく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る