ハルノ、ワカレとデアイ

とかげのはこ

ハルノ、非常螺旋階段

 6歳で芸能界デビューを果たし、その2年後に引退したことはある意味で伝説となった。

 それでも彼女を悪く言うことはできず、むしろ彼女の引退は多くのメディアにおいて惜しむ声が上げられていた。また、彼女自身も華々しい功績を残し、立つ鳥跡を濁さずといった様子で関係者たちとも円満な形で袂を分かつこととなった。

 「ハルノちゃんの引退は寂しいけど、これからあの子が幸せな人生を送ってくれるならそれでいいんじゃないのかな?」というのは、街中でちらほらと聞こえる実際の声であった。


 ハルノの電撃引退から1年が経った今、そんな彼女が今や地方の劇団で年上の人達に演技指導を行っていることなど誰も知らない。彼女の素性と現在の生活を知るのは、同じ劇団のメンバーだけ。今やその劇団こそが、彼女にとっての新たな居場所なのであった。


 劇のための準備運動としてストレッチをするハルノは、先輩である霧切キリコの背中を押しつつ言い難い充足感を感じていた。こうして穏やかな時間の中で仲間たちと演劇を行う日常は、ハルノにとって幸せなことに他ならなかった。


 劇団「月夢がつよ子羊アグヌス」。

 表向きはしがない地方の劇団として活動するこのカンパニーは、しかし普通の劇団ではない。

 彼らが行う公演は人々の夢。草木が寝静まる夜の世界で、彼らは人々の寝息を舞台に劇を行うのであった。それは「悪夢」に襲われ苦しむ人々を救うための物語。魔法使いたちの劇団なのであった。


「ところで、次の公演は私たち二人だけで行うことになったのはどうしてかしら?」


 ハルノと一緒にストレッチを行っているキリコは30代後半の女性であった。仕事終わりの彼女の身体は固まりきっており、ハルノがほぐすたびに鈍いうなり声が上がった。

 疲労困憊といった様子にも関わらず毎日ハルノと一緒に練習を行っているキリコであったのだが、ずっと気になっていたと言わんばかりに次の公演の采配について質問をしてきたのであった。


 公演を取り仕切るのはリーダーの仕事であるから、ハルノも実のところは公演の詳細を理解しているわけでもない。だけどおおよその事情は把握していた。

 この劇団では、演目は観客のニーズに合わせて決めている。その晩、どんな人の夢にお邪魔するのか、そういった情報をもとに劇の内容を決めていくのだ。

 役者である二人はリーダーや脚本家が作り上げた練習メニューの通りに劇の制作を行うため、実のところは二人して劇の演目決めに関してはあまり携わっていないのであった。


「今日のお客さんは私の大ファンだったみたいでね、私がきっかけで演劇を始めたみたいなの」

「それじゃあ今晩のお客さんは、あなたの舞台が見たいということなの?」

「うーん……そういうわけでもなさそうなんだよね」


 ハルノの返事に対して、キリコは驚いていた。

 ハルノのファンなのだから、彼女の演技を夢の中で見せれば良いのではないかと、そんな風に考えていたのだろう。

 だけど今晩のお客様の願いは、ちょっとばかり面白いものであった。ハルノは幼い少女であるお客様の顔を思い浮かべて、自然と頬が緩むのを感じていた。


「実はね、その子は大女優になることが夢みたいでね。ほら、ディズニャー・プリンセスみたいな感じでね」

「女の子たちが憧れるお姫様ってこと?」

「そう! だから私がその子を演じて、大きな舞台の上でお姫様役をすることになったの!」


 つまり本日のお客様はハルノのような女優になることを夢見ており、その夢を叶えるためにもハルノはその子が舞台の上で活躍する姿を演じきる必要があるということだ。自分に憧れる少女の夢の中で、大女優となったその少女になりきって舞台上で活躍する姿を演じるという、二重で女優を演じる必要のある舞台であったのだ。

 この依頼を聞いたとき、ハルノは思わず笑ってしまった。少女の夢の中で大女優を演じる必要があるのかと。とても不思議な劇だねと、ハルノはリーダーに向けて感想を吐露していたか。


「でも不思議な点はもう一つあるわ」

「? 何か問題でもあるの?」

「いえ。ただ、どうしてもう一人の役者が私なのかと」


 少女の願いはディズニャー・プリンセスのようなお姫様を演じることではなかったのかと、キリコは疑問に思ったようだ。自分はそんな劇にふさわしくないのではないかと、そんな風にも考えているみたいであった。

 だけどハルノはキリコの疑問に対し、ゆったりと首を振った。それから優しい口調で、どこか遠くを眺めて呟くのであった。


「……天国のお母さんに、自分の晴れ舞台を見せたいんだって」


 そんなハルノの一言が、キリコの胸に突き刺さるみたいであった。俯いて思惟に耽るキリコの頭では、恐らく彼女の祖父の顔が思い浮かべられていることだろう。

 彼女もまた、大切な家族のために演劇を始めたのであった。今は静かな昏睡状態にある祖父に向けて、キリコは毎晩「月夢の子羊」の一員として彼の夢の中へと潜り込んでいるのであった。


 そんな風な事情のために暗い表情のキリコに対し、眩しいほどの笑顔を浮かべてハルノはキリコの隣を歩く。遠くで時計塔の鐘の音が響く。


「喜んでくれるといいね」

「きっと喜んでくれるわよ」


 ハルノの天真爛漫な性格は時として相手の心に光を照らすようであった。


 彼女たちの舞台は人々の夢の中。

 ここは「月夢の子羊」の団員のみが立ち入ることを許された「月夜の舞台裏」。この場所では幾千もの夢が毎晩創り出されている。そして星空のように、彼らの生み出した物語は、人々を癒す優しい眠りの世界そのものなのであった。


 今夜も誰かの夢の中で、彼女たちは舞台を演じる。

 人々の夢に繋がる螺旋階段を、ハルノとキリコはコツコツと昇っていくのであった。

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