​真鍮の探偵ロイス・アッシュウォーカー/黒い残滓と鋼の守護者

弌黑流人(いちま るに)

第1話『真鍮の美少女と永遠の薄暮(トワイライト・スモッグ)』

 ネオ・ロンドニウム。都市の空は、太陽を拒絶する濃厚な煤煙と、プロメテウス・エンジンから立ち昇る凄まじい蒸気によって、常に『永遠の薄暮(トワイライト・スモッグ)』に閉ざされていた。それは、単なる夕暮れではない。巨大な文明の熱狂的な鼓動が生み出す、灰色と茶色が混ざり合った、恒久的な暗がりだった。石炭と油の匂い、そして微かに肌を刺す『黒い残滓』の粒子が、この巨大な蒸気都市の呼吸であり、同時に、人々を蝕む毒でもあった。


 ​ロイス・アッシュウォーカー探偵事務所は、都市の階級構造におけるグレーゾーン、『煤煙の貴婦人』地区の一角に位置していた。上層階級の真鍮色の豪奢な建物が遠望できるものの、一歩足を踏み入れれば、そこは貧困と犯罪、そして『黒い残滓』の汚染が色濃く残る、陰鬱な場所だった。事務所の外壁は煤で黒ずんでいたが、内部だけは、ロイスの趣味で磨き抜かれた真鍮のパイプと、華やかなヴィクトリア調の家具で満たされている。


 ​「さて、ジェミニ!見なさい、今日のこの依頼書の装丁!真鍮と象牙の凝った意匠よ。この繊細な仕事、まるで私専用の宝石箱ね!きっと依頼人は、私の美学を理解する、素晴らしい資産家ね!」


 ​声の主、私立探偵ロイス・アッシュウォーカーは、その華麗さと、自身の天才的な推理力への絶対的な自信を隠さない美少女だった。彼女は、事務所の豪華な革張りの椅子に、まるで玉座のように足を組み座っている。彼女の外見は、この退廃的な都市の雰囲気とは完全にミスマッチな、一種の挑戦のようにも見えた。


 ​艶やかな金髪は、精密な真鍮のギア(歯車)が組み込まれたボンネットにしっかりと収められ、可憐な顔立ちの左目には、蒸気圧で駆動する精巧な『機械式単眼』がカチカチと微細な駆動音を立てていた。そして何より、彼女の細身の身体には、彼女のシンボルである磨き抜かれた真鍮の胸甲と肩当てが取り付けられている。それは、彼女自身が、このスチームパンク都市の最も精巧なオートマタであるかのような印象を与えた。


 ​彼女の超ポジティブな楽天的な口調は、まるで事務所の古い蒸気パイプが過剰な圧力を放つ騒音のようだった。


 ​「問題なんて、私の新しい帽子を飾る羽根飾りみたいなもの!目立たなきゃ意味がないでしょう?ほら、ジェミニ、早くその解析盤でこの依頼書の封蝋の温度を測って!こんなに豪華な装丁だもの、きっと熱意が詰まっているわ!」


 ​机の向こう側に座るジェミニは、その騒音と熱意に対する、静かなるアンチテーゼだった。彼はロイスの年上の兄であり、この探偵事務所の『技術的脳』を担当する天才的な機械技師、解析担当である。長い黒髪を後ろで一本にまとめ、真鍮製の工具や小型の精密クロノメーターが几帳面に並んだ作業机に向かっている。その端正な顔は常に冷静沈着で、感情を表に出すことはほとんどない。彼は、ロイスの過剰な『蒸気圧』を制御するための、唯一の『安全弁』だった。


 ​ジェミニは、妹から押し付けられた依頼書に触れることなく、手元の『アッシュ・スキャナー』を起動させた。機器が微かな駆動音を上げ、依頼書に微細なレーザーを照射し、構成物質の解析を開始する。


 ​「ロイス。感情的な推測は蒸気圧の無駄だ。我々のデータベースによれば、過去五ヶ月間の上層階級からの依頼はすべて、飼い犬のオートマタの修理か、愛人の身辺調査だ。君の美学云々とは関係ない。」


 ​彼はロイスの「陽気な無駄話」を、常に論理とデータで諫める。その声は、事務所のパイプから漏れる蒸気よりも冷静だった。


 ​「そして、その依頼書には微量だが『黒い残滓』の付着が検出されている。表面的な豪華さと裏腹に、極めて危険な『閾値(しきいち)』だ。君は自分の『負荷限界』を考慮すべきだ、妹よ。」

 彼の視線は、ロイスの左腕へと向けられた。ロイスの真鍮の鎧に隠された左腕は、10年前の未解決事件『灰色の朝』で負った、漆黒の膜のような『黒い残滓の皮膚』に覆われていた。それはロイスのトラウマの象徴であり、同時に、彼女が『黒い残滓』が関わる事件の核心に触れるための『感知器』でもあった。ジェミニにとって、その左腕は常に最大の『エラー・コード』だった。


 ​ロイスは、兄の過剰な心配を気にしないふりをして、手元の紅茶に角砂糖を二つ、わざと大きな音を立てて放り込んだ。


 ​「あら、ジェミニ。あなたときたら、私の華麗な左腕をすぐに心配するんだから。これはね、私だけの特別な『タトゥー』よ!それに、残滓の匂いがするからこそ、依頼を受ける価値があるじゃない!汚れた世界は、私という名の光で磨かなきゃ、誰がやるっていうの?」


 ​彼女は椅子から立ち上がり、真鍮の鎧とハイヒールが事務所の床に快活な音を立てる。その動作一つ一つが、計算された舞台劇のようだった。


 ​「コグ・イエス!(Cog Yes!)これこそが、私、アッシュウォーカー印の正義よ!」


 ​ジェミニは深く、静かにため息をついた。その溜息は、事務所の蒸気パイプの圧力が高すぎることを示すようだった。


 ​「(ため息とともに)やれやれ、蒸気抜きが必要だな。だがロイス、君が現場に行く前に、この依頼書の内容を解析する。差出人はブリストル伯爵。都市の『蒸気神経』技術の権威ある発明家だ。」

 ジェミニは、小型の『蒸気神経(スチーム・ニューラル)』を操作し、依頼書の内容を読み上げ始めた。『蒸気神経』とは、極小の歯車と水銀記録媒体で構成された、この時代における最高精度の計算義肢の総称だった。


 ​「依頼内容は、『最近開発した高性能SN(エス・エヌ)から、特定の記憶部分のみが抜き取られた。抜き取った犯人は、私の最新の発明の機密を狙っているに違いない。』…ロイス、これは単なる盗難ではない。これは、『蒸気神経の記憶盗難』だ。」


 ​ロイスは依頼書を軽快にひらひらと振った。彼女の単眼がカチリと音を立てる。


 ​「記憶の盗難ですって?あら、ロマンチック!泥棒も芸術家ね。でも、私の頭脳の方がよっぽど価値があるわ!さあ、ジェミニ、現場よ。場所は、上層階級居住区の端、壮麗な『空中要塞』が見えるけれど、煤煙が特に濃いエリアね。私は行って、伯爵に私の華麗な推理の自慢話をしてくるわ!」


 ​ジェミニは、妹の無駄話が極限に達する前に、いつもの『自己抑制装置』を起動させる行動に出た。彼は椅子から立ち上がると、窓辺の暗い影から、一匹の長い黒毛の猫をそっと抱き上げた。その猫の名は、スス(Susu)。ネオ・ロンドニウムの煤煙に紛れてしまいそうな、漆黒の長毛種だ。


 ​ジェミニは、抱きかかえたまま微動だにしないススを、先に事務所の蒸気自動車に乗り込んだ後部座席のロイスの膝の上にそっと置いた。


 ​その瞬間、ロイスの『騒音の塊』だった口は、まるで強制的に蒸気バルブが閉じられたかのように、ピタリと閉じられた。彼女の機械式単眼の駆動音も静まり、ロイスの顔から、超ポジティブな笑みが消えた。


 ​「……。」


 ​彼女はただ、ススを撫で、煤煙の都市で唯一の静寂を享受する。これは、ロイス・アッシュウォーカーの『沈黙のルール』。彼女の多動的な思考と過剰な口を封じる、兄ジェミニによる、唯一の『自己抑制装置』だった。


 ​ジェミニは、静かになった妹に小さく、しかし厳しく告げた。


 ​「現場での無駄口は、解析結果が出るまで、このススに預けておけ。いいか、ロイス、今回の『記憶盗難』は、『黒い残滓の皮膚』に関わる技術の悪用だ。慎重に進めるぞ。」


 ​ロイスは口を開くことなく、瞳だけで兄に頷き返した。探偵団は、最初の『黒い残滓』の薫る事件へと、永遠の薄暮の中、蒸気自動車を発進させた。

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