鯱の笑み

憑弥山イタク

鯱の笑み

 文字数列が成す海をば泳ぎて。赫き瞳の鯱、我が心を捕え、為す術など無く溺れゆく。

 銀色だか、或いは灰色だか、其の毛色は尽く私の心を乱し、絡まりし糸が如く離さない。

 乱れし心、唐突に癒されん。脳を溶かすような声は私の心をば癒し、改めて惹き付けられる。宛ら、舟人沈めしセイレヱンが如き、美しく、艶めかしい其の声へと手を伸ばす。

 漸く気付く。私を海中へ引き摺り込み、私の心を縛り付けた鯱とは、心惹かれし声の主。躍らされた事をば理解せし時、我が身は鯱の牙により、完膚無き迄に蝕まれ。

 肌を削られ、骨肉抉られた末に、心が漏れた。

 何故、其方そなたは其れ程までに麗しく、此れ程までに私を惹くか。

 鯱は何も答えず、私の心をば喰らいて、「ごちそうさま」と笑み零す。

 嗚呼! 何という幸福!

 嗚呼! 此の上ない幸福!

 私の血肉を喰らいし鯱。赫き瞳を細めつつ、唄声響かせ君臨せし。忽ち外敵払い除け、唯一無二たる己を示しけり。

 麗しき鯱。艶めかしき鯱。甘美にして荘厳たる唄声を伴い、狂おしき大海を征く。


 行かないで。まだ此処に居て。


 寝言で目を覚まして、思い出す。

 鯱はもう、私の傍には居ない。

 私の心を奪いて、私を苦痛から解放せし鯱は、もう私の前には居ない。

 恩返おかえしも出来ぬ侭、鯱は征きて。

 傍に居続ける事も出来ぬ侭、鯱は征きて。

 鯱の笑みをば思い出す度、心は苦悶を訴える。

 鯱の笑みをば思い出す度、瞼は涙を零す。

 涙の痕は私の頬を冷やし、確実にして、覆せぬ悲嘆をば思い知らせる。

 赫き瞳の鯱。彼女の浮かべし笑顔は、唯一無二にして、替えが効かぬ。故に喪失感さえ私を苛み、日に日に温度を増す涙を落とす。


 貴女の総てに、会いたくなる。


 彼女の残した言葉とて、今にしてみれば私の心。

 会いたいと願うのは、私なのだから。

 また、貴女の笑みに癒されたい。

 また、貴女の声に壊されたい。

 願わくば此の身を再び喰らいて、今に勝る悲しみをば噛み砕き、永久とこしえに続く孤独をば、私に。

 孤独でなくば、貴女を思いて、涙を流せぬが故。

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鯱の笑み 憑弥山イタク @Itaku_Tsukimiyama

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