通り雨
志に異議アリ
願う人
彼に出会ったのは、雨の降る喫茶店だった。
閉店間際の静けさの中、彼は窓の外の雨粒を数えていた。
コーヒーが冷めていくことにも気づかず、まるで何かを待っているようだった。
「雨、好きなんですか?」
思わず声をかけたのは、あの一瞬の間を埋めたかったから。
彼は少しだけ微笑んで、
「濡れても構わない時だけ、好きですね」と言った。
その答えが、どうしようもなく胸に刺さった。
濡れても構わない時……
誰かを愛して、痛みも引き受けられる時。
そんな瞬間を、私はもう長いこと忘れていた。
それから何度も、あの喫茶店で彼と会った。
仕事帰りに寄り道して、互いに大した話もせず、ただ同じ空気を吸った。
彼の指先がカップの縁をなぞるたび、私は心の奥で何かを失っていった。
彼には、指輪があった。
左手の薬指。
でも、私はそのことに一度も触れなかった。
触れてしまえば、終わってしまう気がしたから。
「この時間が続けばいいのに」
小さくつぶやいた私に、彼は苦く笑って言った。
「終わらない時間なんて、退屈ですよ」
その瞬間、恋の終わりが始まったのだと思う。
別れは、唐突にやってきた。
「転勤が決まりました。今日が最後です」
彼はそう言って、いつもより少しだけ長く私を見つめた。
何も言えなかった。
言葉のひとつひとつが、涙に溶けて消えていった。
帰り際、雨がまた降り出した。
彼は傘を差さずに歩き出し、角を曲がるまで一度も振り返らなかった。
濡れても構わない時だけ好き。
その言葉を思い出したとき、ようやく意味がわかった。
彼は最初から、この恋を濡れる覚悟で始めていたのだ。
私は今も、あの喫茶店に行く。
雨の日だけ。
窓の外を見つめながら、雨になる前の心の温もりを探す。
そして、静かに願う。
どうか次に恋をする時も、
この通り雨を濡れる覚悟が持てますように……
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