第3話 自由な授業

 六月。

 まだ梅雨は明けていなかったがプール開きとなった。水床島小学校にはプールがない。校門から歩いて五分ほどの灌頂(かんじょう)ヶ浜がプールだ。

 灌頂ヶ浜は、本土への連絡船乗り場より東にあった。

島の港は小さく、本土への連絡船の発着が優先されたので、漁船は港には接岸せず、村の東の灌頂ヶ浜に置かれた丈夫な木の枠の上を揚げ降ろしされていたが、浜は遠浅になっていて、右側にぐるりと突き出たライオン岬が床見(とこみ)湾を造り、太平洋を流れる黒潮をさえぎっていたので、波おだやかな海水浴場にもなっていた。

 ライオン岬というのは、横からの眺めがまるでライオンが寝そべっているように見えることから、子供たちがこう呼んでいたのであり、行者岬が正しい呼び名だった。


 校舎の窓の外の空は曇っていた。六年生全員が教室で水着に着がえて浜へ行くと、河上先生は言った。

「島に来る前に話に聞いていたんですが、ここの海の透明度は抜群で、浮かんだ船の海底の白い砂に映る黒い影が、波が来ると生き物のようにうごめくそうですね」

「そう。絶景かな、絶景かな」

 ゾッピが始業式の時と同じように大見得を切ると皆が笑った。

 

 でもね、あの、「絶景かな」の場面では、五右衛門は単にキセルを手に、セリフを言うだけで、見得、そう歌舞伎特有の大袈裟な身振りはしないのよ。

 いつかの母の言葉がヤスノリの頭によみがえってくる。


「いいな、君たちは。こんな豊かな自然に囲まれながら過ごすことができて……。

じゃあ、準備運動をして、さっそく泳ぐことにしましょうか」

 ヤスノリたちはラジオ体操をした。先生は島でも数少ない文明の利器ラジカセを職員室から持って来ていた。

 

「手を前から上にあげて背伸びの運動……」


「一、二、三、四、五、六、七、八……」

「左右、左右……」

 両足で跳ぶ運動になると、クラスで一番小柄なゾッピが、まるでマサイ族のジャンプダンスのように驚異的に垂直高く跳んだ。

 無言だったが先生も驚いた様子だ。

 あいつ、いったいどんな跳躍力をしてるんだろう?

 ヤスノリも無言で驚く。

 体操は両足をそろえて四回飛び、それから腕を横へ上げながらの開脚飛びへと続くが、四回飛びの時、ゾッピは高く飛びすぎたために、開脚飛びに入るタイミングが皆とずれてしまった。

 周囲で苦笑が起きるのも気にせず、ゾッピは皆と周期のずれた開脚飛びを続ける。


 ラジオ体操は終わった。

「皆、こうやって手をぶらぶらさせて足首も回して」

 今度は先生の指導で全員が手や足首の運動をする。

「じゃあ、これから水に入るけどいきなり飛び込んじゃだめですよ。心臓まひや筋肉のけいれんを起こすことがあるからね。まず足からゆっくりと水に……」

 ゾッピが笑った。

「どうしたんですか?」

「俺、いつも父ちゃんの船に乗せてもらった帰りに浜が見えると、もう海に飛び

込んじゃうぜ。だってその方が早いもん」

「先生、こんなやつの言うことなんて気にしないで。やっぱり先生の言う通り、水にはゆっくりと入るべきよ」

 カーチーがさえぎるようにして言う。

「もう、おまえ、よけいなこと言うなよ」

 ゾッピは口をとがらせている。

 河上先生は笑いながら生徒たちを波打ち際まで導くと、沖を見て、信じられない透明度だ、とアクアマリン色の海を見てつぶやいた。

「皆もゆっくりと水につかって」

 先に水に入った河上先生は、遠浅の海を平泳ぎで沖の方へと進んでいった。

 ヤスノリたちも続いて浅い海に入る。息を止めて顔をつけると、透き通った水の中の足元の白い砂地が沖まで続いているのが見える。


皆、思い思いに泳いだ後は浜に上がって休憩を取った。

「あれがおいらん岬ね」

 ゾッピが右手にぐるりと取り囲むようにして太平洋につき出した岬を指さして、河上先生に言う。

「ライオン岬でしょ」

 すかさずメックが訂正する。

「へへっ」

 ゾッピは言葉を続けた。

「先生、この島じゃね、あのライオン岬の先っぽあたりの海では魚を獲るのも船で近づくのもだめなんだよ」

「へえ、そうなんですか? でも、どうしてだめなの?」

「俺もよくは知らないけど、なんか岬の先っぽは行者様の頭にあたるから、とか、そこでは月の女神が自分の姿を海に映して、今でも行者様をしのんでるからじゃま

しちゃいけない、とか、いろんな言い伝えがあるって父ちゃんが言ってた」

「へえ」

「ほら、先生が一番最初に来た日、俺たちがいつもよく唱える『呪文』のこと、話したよね?」

「ええ、たしか、『今夜は桜色』が正しいんじゃないか、って、僕が言ったやつで

しょう?」

「そう、それそれ。あれとね、この言い伝えはセットになってるんだ」

「そうなの?」

「そう」

 ゾッピが答えた。

「ふーん。ところで、さっきライオン岬の先では月の女神が自分の姿を海に映している、って

言ったけど、漢字で『海の月』って書いて何て読むか誰か知っている人はいますか?」

 先生は皆を見渡しながら聞いた。

「ああ、俺、知ってる。それはね……」

 と、そこで少し区切ると、ゾッピはちょっと胸をはって見せた。

 あいつ、またくだらないギャクを飛ばすつもりだ……。

 ヤスノリが思っていると、ゾッピは答えた。

「く・ら・げ」

 いつになくまじめなゾッピの返答に皆はあっけにとられている。

「そう。そのとおり。君、よく知ってたね」

 河上先生は感心したように言った。

 ヤスノリは「海月」が「くらげ」と読むのを知らなかった。さすがは漁師の息子だ、と思うよりも先に、自分が知らないのになんであいつが知ってるんだ、というくやしい思いでいっぱいになり、先生の言葉がなんだか遠くから聞こえてくるように思えた。

「ところで先生、日本に古くからある泳ぎ方の古式泳法って知ってる?」

 今度はカーチーが聞いた。

「ええ、話には聞いていますが……」

「あのね、昔、この島には八月の満月の夜、村の若い男たちがふんどし姿になって、古式泳法でこの湾の向こうの極楽浜まで泳いでゆく習わしがあったの、遠泳よ、遠泳」

 そう言って、ライオン岬の付け根の極楽浜を指差す。

「ここからだとかなりの距離がありますね」

 先生は目をこらして言う。

「だいたい一里、つまり四キロくらいだ、って、聞いたわ」

「へえ……」

「それでね、ヤスノリ君のお父さんが子供の頃、ちょうど私たちくらいの年の頃に最年少でその習わしに参加して、見事に泳ぎ切ったんです」

 カーチーがヤスノリを見ながら言った。

「ヤス君のお父さん、その後、恋人に告白して十年越しで付き合って、それから結婚したんですよ」

ヤスノリの胸が鼓動を打ち始めた。河上先生は、いい話ですね、と言いながらヤスノリを見た。

「あの岬の本当の名前にもなっているえらい行者が、昔、この島にやって来て、ここで自分自身で灌頂の儀、つまり頭に水を注いで様々な仏と縁を結ぶ儀式をしたんですって。だからこの浜は灌頂ヶ浜って言うのよ。それでその行者の後を追うように天から狐が降ってきたの。それは八月の満月の晩のことだった、って伝えられているわ。天の狐は修行中の行者を見守ったり、村の子供たちと遊んだりしたんですって」

 そうですか、と先生はうなずく。

「で、後でその狐を祀ってできたのが天狐森神社なの。ちょうどあのあたり、岬の

先っぽの高台の森にある神社よ。今ではもう神主さんもいなくなった無人の神社だけどね。それで話を戻すけど、昔の遠泳で男たちが海に入る前にね、その時にはまだいた天狐森神社の神主さんが御神酒を海に注いで無事を祈ってたみたいなんだけど、神主さんが亡くなってしまったことと、遠泳があまり馴染みのない古式泳法の横泳ぎだったことで、この習わしは今ではもう、すたれてしまったの……」

「それは残念ですね。ああ、それからその昔行われていた遠泳、っていうのは、つまり天狐森神社の神事、ってことなの?」

 河上先生の問いに、そう、とうなずいてカーチーは話を続けた。

「この遠泳は夜の八時にスタートするんだけど、どうして八時なのか、ってのはこの辺りでは毎年八月の満月、つまり大潮の晩はだいたいこの時間が満ち潮になるからなんだって。大潮の晩の一番潮が満ちる時よ。真っ暗な夜中で月明りだけが頼りだし、これってちょっとした度胸試しよね」

 ずいぶんと詳しいんですね、と先生が言うと、カーチーは、だって、いつもおじいちゃんが話してくれてたから、もう覚えちゃった、と言い、言葉を続けた。

「で、遠泳はだいたい二時間くらいかけて泳ぐの。この海はあのライオン岬が天然の防波堤になってるから波も無くて穏やかなんだけど、それでも夜だからね。先生、夜の海を見たことある?」

 河上先生は、いえ、と首をふった。

「あのね、夜の海って独特よ。見つめていると引き込まれそうになるわよ。不気味なの。それでその海に櫓舟が何艘も出て、先頭の一艘が舟の上で太鼓を叩きながら進むんだって。けれど、舟で篝火は焚かないわ。魚が寄って来てしまうから。その闇の中を、月明かりだけを頼りに、太鼓の音に合わせながら泳いでゆくのよ。そして暗い海でも、どこにいるのかわかるように、全員、頭に白の鉢巻を締めるの。それで、途中で何回か舟が止まるんだけど、これは休憩のためね。すると泳いでいた者は、縁に手を掛けて休むの。立ち泳ぎで海に浮かびながらね。おなかがすいていれば、舟の人がおにぎりを差し出してくれるの。ヤスノリ君のお父さん、海に浮かびながらおにぎり食べたんだって。水に入ってものを食べたのはあれが初めてだったみたいよ」

 ヤスノリはカーチーの言葉に、体がさらにほてってきたように思えた。

「この遠泳は途中でやめたければ舟に引き上げてもらえるの。だけどヤスノリ君のお父さんは最年少で参加して見事に泳ぎ切ったのよ。大人たちに交じってね。子供ではまだ無理と言われていたのを見事にはね返したの」

 その話ならヤスノリも何度か母親やミチおばさんから聞かされていた。ちょうどその頃、父の母親、つまりヤスノリの祖母ツギノが亡くなり、その悲しみを紛らわすために少年だった父がやがて巡ってきた天狐森神社の神事である遠泳に挑んだということ。更にその上、まだ少女だった母に告白し、遠泳を成し遂げた後、銀の魚になったみたいだ、などと、聞いている方が恥ずかしくなるようなことを言ったということ、等々。

「ヤスノリ君のお父さんって、すごいんですね」

 先生のほめ言葉は照れくさかったが、ハナのいる前で言ってくれたのは嬉しかった。


 白い砂浜に透き通った海。辺りには寄せては返す波が息づいている。

 カーチーの話が一通り済むと、ミツアキは丸く平べったい石を取って立ち上がり、

アンダースローで波に向かって投げた。石は何段も水を切って飛んで行った。

「さすが、男の子」

 ハナの声がした。


「ところでね、さっき、ゾッピ君が言った、『絶景かな、絶景かな』、って、何のことだか、知ってますか?」

 先生の問いに、ハナが答える。

「歌舞伎でしょ」

「そう、歌舞伎の中の『楼門五三桐という、天下の大泥棒、石川五右衛門が登場する演目の中のセリフなんです』

と河上先生が言うと、クマがつぶやいた。

「歌舞伎って、そもそも何なの?」

 先生は穏やかに笑うと答えた。

「歌舞伎というのは、一六〇三年、ちょうど徳川家康が江戸幕府を開いたのと同じ年に、出雲阿国という人が、ある日突然、京都の街角で念仏踊りを踊りだしたのが始まり、とされているんです」

 河上先生の授業は、今は体育の時間という定められた枠を離れて舞い上がり、社会科方面の空へと自由に飛翔してゆく。

「えーっ。何かに取り憑かれたの? そのイズモノオクニ、って人?」

 メックが少し身を引いた感じで言う。

「それがなぜ突然に踊りだしたのかは、わかっていないんです」

「不気味」

 女子の間でそんな声が漏れる。先生は、確かにそうかもしれませんね、とうなずく。

「ところで、歌舞伎という言葉は、もともと『かぶく』、つまり、常識はずれの奇抜な行動をする、という意味の言葉から来ているんです」

「ふーん」

 ヤスノリたちはつぶやいた。

「その『かぶいた』人たちは人の目を引く派手な姿で、当時の京の街中を歩きました。当時の街の人々はこれに夢中になり、やがてその波は江戸にも伝わり、現在の歌舞伎が出来上がった、と言われています」

 物知りな河上先生が言うと、ゾッピは腕組みをしてうなずいた。

「『ある日、突然』、ねえ。ふーん……」

 

 そろそろ教室に戻る時間となった。皆、列になり浜を後にする。ヤスノリとミツアキは列の一番最後を歩いた。

 すると突然、一番前を行くゾッピがこちらを振り向くと立ち止まり、天を仰いで忍者がするように印を結ぶと、まるで何かに憑依された霊媒師のように普段よりも声の音程を跳ね上げて言った。

「えいっ! お告げの神より、今、突然にして未来を見透かす力を授かった!」

 ゾッピはそう言うと目を閉じた。

「……見えます。今日の給食はカレーです」

「はいはい。わかったから目を開けて」

 河上先生がたしなめる。

 ゾッピはさらに目立とう精神を発揮して、父親直伝(らしい)の、一足ずつにはずみをつける歌舞伎の「飛び六方」で教室へ向かい始める。

「ゾッピ君、今度は武蔵坊弁慶になったんですか?」

 河上先生があきれたように言った。

 この授業が始まる時は石川五右衛門だったのに、とでも言いた気に……。


 ヤスノリたちは教室に戻るとすぐに給食の用意にかかった。

「おっと、ラッキー。今日は揚げパンじゃん」

 運ばれてきたパンの箱を見てゾッピが叫ぶ。

「ねえ、『お告げの神様』って、あんたにウソ教えてない?」

 カーチーが、にやにやしながら言う。

 ゾッピは、知らんぷりを決め込む。

 配膳が済んで全員で言う、いただきます、の声が生徒十一名ならびに教師一名のがらんとした教室に響いた。

 ヤスノリは揚げパンに添えられていた溶き卵と白菜のスープをまず口に入れてみた。白菜はもともと冬の野菜だが、この時期の白菜は冷涼な気候の地域で栽培される、みずみずしさと野菜特有の自然な甘さの夏白菜だ。あっさりしているのによく白菜の出汁が出ていておいしかった。疲れた体の細胞の一つ一つにスープが染み込んでゆくようだ。

 次に揚げパンをかじってみる。

 やっぱりおいしい。ああ、給食のメニューが毎日揚げパンだったらなあ……。

 口をもぐもぐさせながら思う。

「なつかしいなあ。僕もね、君たちくらいの時は、給食のメニューの中では揚げパンが一番好きだったんです」

 先生の言葉に女の子たちは、やっぱりね、とうなずいている。

「ところでね、ゾッピ君。『お告げ』が外れてしまって残念だったね」

 先生は、いたずらっぽく笑ってゾッピを見た。

「いやあ、別にどうってことないですよ」

 ゾッピは調子がいいのか、それともただ図太いだけなのか、手を頭の後ろにやりながら答える。

 河上先生はゾッピを少しでもフォローしようと思ったのかこんな話をし始めた。

「ああ、その『お告げ』で思い出したんだけど、皆も食べながらでいいから聞いていてね。あのね、多くの動物には予知能力、つまり、これから起きる事を前もって知る力があるって言われてるんです。たとえば知ってると思うけど、なまずが地震を予知できる、とか」

「ああ、聞いた事ある」

 シズが揚げパンを口に含みながら言う。

「まあ、それだけではなくて、たいていの動物は天候の変化が予知できる、と言われています。たとえばこれから雨になる、ってことはわかるみたいですね。まあこれくらいなら人間でも予知できる人はいますけどね」

「うちの父ちゃん、だいたいそんな感じ」

 漁師の息子のゾッピが叫ぶ。

「君たちだって、たとえば、近いうちに、なんかこんな事になりそうだな、って思ってたら、本当にその通りになった、なんて事を経験したことがあるんじゃないですか?」

「ああ、あるある。私、この前、神戸のおじさんから電話が掛かってくるんじゃないか、って気がしてたの、なんとなく。そしたら本当に、その日のうちにおじさんから電話が掛かってきて……」

 ハナが実感を込めて言った。

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