5「悪鬼の出所と過去との違い」
香炉に残った気配を辿り、宮のある区画を出て、北側へといくつもの通りを越えていく。しばらく歩くと、下働きの娘の多い広場が近づいてきた。
まただ。記憶と違う。
得も言われぬ違和感が、脊髄を通って頭の奥を引っ掻き続ける。
前にこの任務に当たったときは、人の少ないところで罪人と遭遇したはずだ。
こんな陽の高いうちに、広場で鉢合わせになれば大騒ぎになってしまう。
それでなくとも、下働きの娘というのは口が軽い。
騒ぎとなるのは避けたいところだが、香炉がまとった邪気はそちらへと続いていた。
広場に出ると、妖気の
「こんなところでサボりとは良いご身分だな」
前置きなしに、辰焔は宦官に詰め掛ける。
宦官は振り向き様に辰焔の手中にある香炉に目を留め、「ひっ」と顔を引きつらせた。
「身に覚えはあるようだな。
ここでは目立つ。人の少ないところへ来てもらおうか」
声変わりを知らない声が低く熱くなり、広場に響く。
目の前の宦官は小刻みに左右を見渡し逃げ場を探すが、何事かとこちらを注視する人にあふれ、警護の任に就く宦官も睨みを利かせている。
「
「わ、分かった……」
逃げ場のないことを悟ったようだ。大人しく連行された。
真っ昼間の捕り物となってしまったが、予想に反して事が荒立たなくてほっとした。
そう思ったのも、束の間。人気が減ると、宦官は身を翻して逃げを打った。
「待て!」
迂闊だった。急いで印相を組み捕縛に掛かる。これで問題ない。
だが、宦官は離れたところで立ち止まると、両腕を体の前で交差させた。
辰焔の放った術が、天に向かって立ち消える。
どういうことだ、通常の人間にできる技ではない。
過去の出来事とも違う、初めて見る光景に頭が混乱し、次の一手が出遅れた。
うわぁぁぁ! という雄叫びとともに、光が真っ直ぐ伸びてきた。
視界で捉えられたのは、切っ先の鋭い刃物であることのみ。
投げたのか。だがやはり、速度も角度も落とさず向かってくるなんて――
そんな思考が脳内を駆け巡り、避けるという判断すらできなくなっていた。
「あ……」
刺さる。そう思った瞬間に、巨大な影が壁となって目の前に飛び込んできた。
「辰焔! 何やって――」
叫んだ声が、途切れ、頭二つぶん大きな体が、辰焔に圧し掛かる。
その勢いと重みで、辰焔を下敷きにして地面に倒れ込んだ。
「……ジン、リエ?」
白い衣が、じわじわと赤く染まっていく。生暖かいそれは抱きとめる辰焔の手にも広がった。
「景烈、景烈!!」
咄嗟に刃物に手を伸ばそうとするが、強い思念が脳に直接飛び込んできた。
〈抜くな! お前はあいつを追え!〉
「で、でも……」
〈ばか。俺は平気だから、お前は行け!〉
「し、喋れないくせに」
息も絶え絶えの相手に、そんな悪態が口を突いて出る。
「おい。巫術師、何をしている! あの宦官を追え!」
見張りの宦官にまで追い立てられた。
「でも医官殿が、医官殿が――!」
「妃を襲った罪人が先だ!」
目の奥に、火花が走る。今ここで深い怪我を負った人がいるのに、なんて言い様だ。
「シン、エン……」
景烈が肉声で呼び掛けてきた。
「大丈夫だ。自分の仕事を、全うしろ」
「ばか。ばか……」
それでも、その通りだ。この不条理な世界では、役目を果たさなければ、次は己の身に矛先が向けられる。
「分かった」
少しでも痛みを与えないよう、ゆっくりと体の下から抜け出すが、見張り役は「何をもたもたしている」と声を張るばかりだ。
「医官殿に手当てをお願いします」
キツく見張り役を睨みつけると、不愉快そうに顔を歪めた。
それを見て、
「……あなたの顔も気配も覚えました。頼みましたよ」
薄い唇から怒気と熱気を孕んだ吐息を浴びせた。
宦官は体を強張らせ、喉を鳴らした。
〈さ、逆らえない……〉
その思考を読むと、辰焔は長い外套をたくし上げて駆け出した。
邪気の気配は切れていない。
すぐに見つけられる……はずだった。確かに見つけた。
己の手で、自分の首を絞めて自害しているなんて、誰が予想できただろう。
「こんなの、知らない」
血まみれの手で、額を抱える。
呆然としていると、宦官の口から小さな鳥が抜け出してきた。悪鬼が入り込んでいたのか。
ハッと息を呑み、急ぎ印相を組む。だが、小鳥は羽を広げ、ふっと
取り逃がした? それよりも……
「いったい、何が起きているっていうの……?」
過去の出来事とまるで違う。その〝現実〟に戸惑うばかりだ。
「景烈……」
なんとか正気を保たなければとふらつく足に力を入れ、残してきた彼の元へと戻ったものの……。
そこには赤い染みが広がっているだけだった。
今度こそ、へなへなと座り込んでしまった――
***
小鳥は男の肩で羽根を閉じ、くたりと寝そべっていた。
「へぇ。あの香炉にそんなに早く気づいた巫術師がいたのか」
男は羽根を撫でながら、愉快そうに呟く。
「そこまで有能な者が入ったとはな。
さて、これから、どうしてくれようか……」
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