第2話 兆し(10歳)

村の朝は鶏の鳴き声と共に始まる。

だがその日、村の子供たちはいつもより早く広場に集まっていた。

先日の出来事が噂となってはいたが全員がそれを目撃したわけではない。

『孤児のレオンがトマスを殴った』

この話を信じられずにいるものも多かったのだ。

村長の息子に逆らうなど常識ではありえない。

だが実際トマスの口元には、まだ赤黒い痕が残っていた。


トマスは広場の中央に立ち周囲を睨みつけていた。

彼の誇りは傷つき威厳は揺らいでいる。

だが村長の息子としての立場を守るため、ただ黙っているわけにもいかなかった。

トマスは声を張り上げた。


「このあいだのことは、ただの偶然!レオンが調子に乗っただけだ!」


その言葉に子供たちはざわめいた。

偶然なのか、それとも本当にレオンが強いのか。

誰も答えを持たない。

だが視線は自然とレオンへと集まる。

広場の隅に立つ彼は無言でトマスを見つめていた。

拳を握るでもなく、怒鳴るでもなく、ただ静かに。

だがその沈黙こそがトマスを追い詰めていた。


「おいレオン、このあいだのことを謝れ!」


トマスは叫んだが声は震えていた。

謝罪を引き出せば自分の立場を取り戻せる。そう信じていた。

しかしレオンは一歩前に出て低い声で答えた。


「謝るのはお前だ。俺に手を出したことを忘れたか。」


その瞬間、広場は水を打ったように静まり返った。

誰もが息を呑み次の展開を見守った。

トマスの顔は真っ赤になり、怒りと恐怖が入り混じった表情を浮かべていた。

彼は再びレオンに飛びかかろうとしたが足がすくんで動けない。

レオンの冷ややかな視線が体に刻まれた恐怖を呼び覚ましていたのだ。


レオンはさらに一歩近づきトマスの肩を掴んだ。

力強く――逃げられないように。


「俺に逆らえば、この前の続きになる。わかるな?」


トマスは唇を噛み目を逸らした。

村長の息子としての誇りは砕かれ、ただの十歳の子供としての弱さが露わになった。彼は小さく頷いた。


その光景を見ていた子供たちは大きな衝撃を受けた。

村長の息子が孤児に屈服するなど考えたこともなかった。

だが目の前の光景は夢ではない。たしかな現実だ。

すでにレオンはただの孤児ではなく恐怖を武器にする存在へと変わりつつあった。


「今日から、お前は俺の言うことを聞け。」


レオンは冷静に告げた。

命令ではなく淡々と事実を宣告するかのように。

トマスは反論できなかった。彼の沈黙が従順の証となった。


その日から村の子供たちの力関係は変化した。

トマスはレオンの影のように付き従い、かつての威張り散らす姿は消えた。

子供たちは戸惑いながらもレオンに一目置くようになった。

彼の存在は恐怖と憧れの両方をもたらしていた。


夕暮れ、レオンはひとり畑の端に座っていた。

拳を見つめながら心の中で呟いた。

(俺はなかなか強い――殴れば勝てる。だが勝った後にどうするかが大事だ。)


彼はまだ十歳。

だがその思考は、すでに支配者の兆しを感じさせるものだった。

暴力は手段であり、恐怖は道具である。

トマスを屈服させたことで、

幼いながらも初めて「支配する」という感覚を知ったのだ。


村の夜は静かに更けていった。

だがその静けさの裏で、ひとりの孤児が新たな道を歩み始めていた。

「……殴れば幸せになれる。」

その哲学は確信へと変わりつつあった。

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